ガーシュウィン:ラプソディー・イン・ブルー

ジョージ・ガーシュウィン:ラプソディー・イン・ブルー

October 1, 2007

まず最初に断っておきますが、私はこの楽曲が大好きです。
もし……これまで交際のあったすべての女性と寄りを戻してやる、そのかわり「ラプソディー・イン・ブルー」は二度と聴いてはならないと、悪魔が契約を迫ってきても、敢然と断ってしまえるくらい、大好きな楽曲であります。

しかしながら……「ラプソディー・イン・ブルー」はそんなに優れた管弦楽作品なのか、ガーシュウィンの代表作と呼ぶにふさわしい音楽かというと……首を傾げてしまうのであります。

今回は誤解を招きそうな内容なので、いつもに増して、長ぁーーくなりそうな悪寒をはらみつつ、順を追って説明しますですね。

ジョージ・ガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」は、バンドリーダーのパール・ホワイトマンが主催するコンサート「近代音楽の実験/アメリカ音楽とは何か」のために作曲された。
初演は1924年2月12日、ニューヨークのエオリアン・ホールにて。
演奏は、ガーシュウィン自身のピアノ独奏と、ヴァイオリン8名を加えたポール・ホワイトマン楽団。

コンサートは全部で11のプログラムで構成され、世界初のジャズ録音として一世を風靡した「リヴァリー・ステイブル・ブルース」に始まり、ジェローム・カーンやアーヴィング・バーリン、ヴィクター・ハーバードなどのポピュラー音楽を演奏。
ガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」はプログラムの終盤に用意され、フィナーレにエルガーの行進曲「威風堂々」が演奏された。

コンサートは大成功を収め、新聞は新しいアメリカン・ミュージックの誕生を、大々的に喧伝した。
3月7日に同じエオリアン・ホールで、4月21日にはカーネギー・ホールで、全プログラムが再演、再々演された。ポール・ホワイトマン楽団は、1924年だけで、「ラプソディー・イン・ブルー」を84回も演奏(そのほとんどでガーシュウィンがピアノ独奏)している。

ジョージ・ガーシュウィンは、1898年9月26日、ニューヨークに生まれた。両親はロシア・サンクトペテルブルグ出身のユダヤ系移民で、父親モリスは脳天気というか楽天家というか、次々と商売を始めてはそれを潰し、次々と住居を変え、絶えず経済破綻を繰り返していた。
一家にはユダヤ教の信仰心もほとんどなく、週末になると両親は友人の家に出掛け、または友人たちを家に招いてカードゲームに興じていた。このような、根無し草的移民家庭の子どものなかには、ギャングになる奴も多かったし、ジョージもそちらの道を極めてもおかしくない環境に育っていた。
少年時代のジョージは、喧嘩好きな腕白小僧。得意のローラースケートで、アイルランド系、ユダヤ系、イタリア系の縄張りをスリリングに走り回っていた。アイルランド系の少年に追いかけられ、エレベーター・シャフトに転がり落ち、脳震盪を起こしたこともある。
そんな或る日のこと……

12歳のジョージは、学校の講堂から聞こえてくるヴァイオリンの音色に、心を奪われた。曲はドヴォルザークの「ユモレスク」だった。
ジョージは演奏しているのが誰なのか知りたくて、講堂の前で見張っていた。しかしそれらしき人物は出てこない。
1時間ほど待っていると、天空から大粒の雨が落ちてきた。
ずぶ濡れになったジョージは辛抱できず、講堂の中に駆け込んで、訊いた。「さっきヴァイオリンを弾いていたのは誰ですか?」

マクシー・ローゼンツヴァイクの家は、ジョージの家から数百ブロック離れた場所にあった。急き立てるような激しいノックの音。玄関のドアを開けたマクシーの両親は目を丸くして驚いた。濡れた服のままのジョージが、雫をしたたらせながら、顔を輝かせて立っていた。
のちにマックス・ローゼンと改名し、名ヴァイオリニストとして名をあげるマクシー少年は、ジョージよりも1歳年下だった。二人はすぐに仲良くなり、ジョージは頻繁にローゼンツヴァイク家に通うようになる。
マクシーは、有名な音楽家や、作曲についての話をしてくれた。ローゼンツヴァイク家にあったピアノを(見よう見真似で)弾くようになったジョージは、いつの日かマクシーの伴奏者になることを夢見ていた。そのことを本人に打ちあけると、「諦めろ、ジョージ、きみには音楽の才能がない」と、未来のヴィルトゥオーソは冷静な声で言った。

ジョージのアパートに、中古のアップライト型ピアノが運ばれてきた。叔母の家にあるのを見て、負けず嫌いの母親ローズが(見栄をはって)月賦で買ったのだという。
ローズはこのピアノをジョージの兄・アイラに弾かせようと考えていた。アイラはジョージとは何もかも正反対。勤勉実直でいつも本を読んでいる、おとなしい性格だった。
ところが、ピアノは弟のジョージが独占してしまった。椅子の高さを調節し、ピアノのふたを開けると、ジョージは一気呵成に当時の流行歌を弾き始めた。
喧嘩三昧の毎日をおくっていたジョージが音楽に興味を持っていたことなど、家族はだれも知らなかったので、アッと驚いた。さらに驚いたのは、彼の演奏の巧さだった。もっと驚いたのは、その日を境にジョージは少年ギャング予備軍から足を洗い、ピアノに夢中になったことだった。
両親は、ジョージを街のピアノ教師に通わせることにした。ジョージはすぐに譜読みを覚え、学校の催し物などでピアノを演奏するようになった。

このころのジョージのアイドルは、「アレグザンダーズ・ラグタイム・バンド」のヒットで有名になったアーヴィング・バーリンだった。
また、ジョージはクラシック・コンサートへも熱心に通うようになり、学生オーケストラとも、ピアノで共演している。
巷で流行しているポピュラー・ミュージックも、ベートーヴェンやシューベルトなどのクラシックも、彼のなかでは区別がなく、どれも「素敵な音楽」だった。

中学を卒業したジョージは、すぐにでも音楽関連の仕事に就きたがっていたが、母親は堅実な人生を願い、彼を商業高校へ進学させた。
1913年の夏休み、ジョージはリゾートホテルでピアノを弾き、週5ドルの賃金を得る。自分のピアノが銭になることに自信を得たジョージは、もともと勉強嫌いだったし、音楽出版社のオーディションに受かると、さっさと商業高校を中退してしまった。

ジョージは、1914年ごろからチャールズ・ハンビッツァーという音楽教師に師事し、練習曲と音階の基礎を体系的に教わっている。このハンビッツァーという一風変わった教師は、すぐにジョージの才能に気づき、ピアノ奏法だけでなく、和声、音楽理論、管弦楽法などを、J.S.バッハ、ベートーヴェンから、(当時最先端だった)ドビュッシーやラヴェルを例にあげて教えようとしていた……が、ジョージはそれらに強い興味を示しながらも、商業音楽の世界に行ってしまう。
これは彼の家族や生活環境をみると、仕方ないことだ。明日の千円より今日の百円。修得するまで何年かかるか見当もつかない管弦楽より、いま自分が持っている技術がすぐにでも金に化けるのなら、迷うことなくそっちを選ぶ。
なにしろ、ジェローム・H・リミック社(音楽出版社)に、週給15ドルで就職したとき、ジョージはまだ15歳の子どもだったのだから。

その後のジョージ・ガーシュウィンについて書く前に、ここで当時の音楽事情を、簡単に説明しておきますです。
なにしろ100年近く昔のことなので、現代とは大きく違っています。ラジオ放送はまだ始まっていません(世界初のラジオ放送は、1920年11月2日、米国ピッツバーグに開局したKDKA局)。映画はもちろんサイレント(無声映画)。蓄音機はすでに発明されていましたが、まだ開発途上で音質が悪く、録音盤も高価だったので一般家庭に普及するまでにはなっていませんでした。
19世紀の終わりごろから、チョイお金持ちだとピアノが買えるようになりました。大量生産がシステム化されて、ちょっとだけ安価になったんですね。私より年配の方は、高度経済成長期の日本でピアノが流行ったときのことを思い出してください。ちょうどあんな感じで、当時のアメリカでも、プチ金持ちの家庭にピアノが普及していったんです。
で、当時の流行歌は、シートミュージックというカタチで売られました。歌詞付きのメロディとピアノ伴奏が印刷されている、一枚刷りの楽譜です。これを買って帰って、弾いて唄って、家族で音楽を愉しんでいたわけです。
素人が唄って演奏するものですから、フランツ・リストじゃなきゃ弾きこなせないような難しいのは駄目です。簡単に弾けて、耳に馴染みやすく、それでいて新鮮な感じがするもの。この点は、ピアノがカラオケに代わっただけで、現代でも同じですね。これがポピュラー音楽産業の(現在まで脈々と連なる)起点となりました。
家庭で愉しむ目的の素人歌手や素人ピアニストが主なお客様でしたが、ボードヴィルやレビューの歌手や芸人、演出家たちも上得意様で、商品(音楽)がショウで披露されヒットすると楽譜もバンバン売れます。で、劇場が多く集まっているニューヨークに音楽出版社が集中。それぞれの会社が専属のピアニストを雇い、客寄せに自社の音楽をガンガン弾かせていたので、その煩いことこの上なし。特にブロードウェイと六番街のあいだ、28番通りはティン・パン・アレー(ブリキ鍋通り)と、嫌味な渾名までつけられちゃいました。
のちにスタンダード・ソングと呼ばれることになる米国産大衆歌謡曲は、この時代に、この場所で産まれたものが多いです。

リミック社で働き始めたガーシュウィンのピアノは、評判が良かった。彼は得意の即興演奏を交え、同じ曲を幾通りも違うように演奏してみせた。社長はすぐにジョージをソング・プラッガーに昇格した。
ソング・プラッガーというのは、音楽出版社のセールス担当者のことで、自社が版権を持っている楽譜を持って、レビューやミュージカルの関係者に売り込みに出掛ける。ジョージはこの仕事を通じて多くの歌手や演出家、演奏家と出会い、人脈を拡げてゆく。
天性の社交好きもあって、ジョージは頻繁にパーティに顔を出した。アデールとフレッドのアステア姉弟との最初の出会いもそのころ。
しかしジョージの好奇心は器用な商業ピアニストだけに収まるものではなく、いつかきっとアーヴィング・バーリンやジェローム・カーンのようなヒットソングを書いてみせると野望を秘め、次々と習作を作曲していた。後年ジョージは、(そのころ書いた曲について)「ジェローム・カーンに敬意を表して、素直に真似しました。当時の作品は、カーン自身が書いたようなサウンドになっています」と述べている。
同時にジョージは、機会があるごとにクラシック・コンサートも聴きに行った。チャールズ・ハンビッツァーの指導も、断続的に受けていた。

細かい事ををくどくど書いていたんじゃ、いつまで経っても終わりそうにないので。中を端折って、話を進めます。

2年間勤めたリミック社を辞めて作曲に専念することにしたジョージは、1919年、アーヴィング・シーザーと一緒に「スワニー」という曲を作り、ブロードウェイの興行師ネッド・ウェイバーンに見せた。
ネッドはこの曲が気に入り、キャピトル劇場で上演していた「キャピトル・レビュー」のなかに(総勢60名のコーラスガールを使って)組み込んでくれたが、客席の評判は芳しくなく、シートミュージックの売れ行きもふるわなかった。
結果に失望しながらも、曲の出来には自信があったので、ジョージはパーティなどで「スワニー」をよく弾いていた。これを耳にしたアル・ジョルソンが、自分のステージで唄いたいと申し出た。
「スワニー」はすぐに「シンバッド」というレビュー・ショウに取り入れられ、大ヒットした。ジョルソンが録音したレコードは飛ぶように売れ、シートミュージックも250万枚売れた。
ジョージ・ガーシュウィンは、ティン・パン・アレーのヒットメイカーとして、ようやく認知されるようになった。

「スワニー」の大成功で自信を得たジョージは、デトロイトの大物興行師ジョージ・ホワイトと接触。安いギャラで使える有望な新人を欲しがっていたホワイトは、週給50ドルでジョージを雇い、レビュー「スキャンダルズ」のための音楽を書かせる。
「スキャンダルズ」は大成功。足掛け5年間「スキャンダルズ」に関わったジョージの週給は、最後の年には120ドルになってた。
このレビューのためにジョージが書いた曲は、今日スタンダード・ソングと呼ばれ歌い継がれている、後年に彼が書いた曲(「エンブレイサブル・ユー」や「アイ・ガット・リズム」など)と比べると、かなり見劣りがする。
「スキャンダルズ」成功の要因は、贅沢で豪華な舞台美術と、半裸の女性をズラリ並べたエロティックな演出にあった。

レビューの成功が、ジョージの次のステップとなった。
ジョージは、2歳年下の株式ブローカー、ジョージ・パレーと知り合い、二人でナイトスポットを徘徊しては、コーラスガールたちに気前よくチップをはずんだ。
ジョージは洗練された仕立ての良いスーツを誂え、流行のアクセサリーを身につけるようになる。
パレーはジョージを、ジュール・グレンザーのパーティに誘った。
宝石店カルティエの副社長、ジュール・グレンザーは、芸術家のパトロンとしても有名な男だった。
彼の主催するパーティには、モーリス・シェヴァリエ、アーヴィング・バーリン、ジェローム・カーン、コール・ポーター、リチャード・ロジャース、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、チャールズ・チャップリン、ヤッシャ・ハイフェッツなどが、常連客として招かれていた。

ジョージ・ガーシュウィンという男は、常に新しい何かを吸収せずにはいられない性質だったんですね。しかもすぐに結果を欲しがる。
ガーシュウィンの女好き、パーティ好きは有名な話ですけど、後年だんだんと名前が売れて名士たちの集まりに招かれるようになると、(育ちの悪さから)場に馴染まないのを恐れて、ピアノを弾いてばかりなんですね。それがけっこう巧いものだから、ますます人が集まってくる。
身近にいた人たちの証言によると、かなり辛辣な言葉を(本人は嫌味とは意識せずに)吐いているんですが、彼が屈託なくピアノを弾き始めると、誰もが天才ゆえの過ち、若気の至りと、納得ないしは許容してしまう。実際、死去したのが38歳だから、死ぬまで若者であり続けたんだけど。得な性格だったのですね。
ジョージは、グレンザーのお気に入りの友人リストに加えられました。

「ラプソディー・イン・ブルー」成功の理由:その1
ガーシュウィンは、社交界の大物と、深い親交があった。

好評を続けていたジョージ・ホワイトの「スキャンダルズ」は、1922年度版を制作するにあたり、人気上昇中のダンスバンド、ポール・ホワイトマン楽団を雇った。
ポール・ホワイトマンは、1890年デンバー生まれのバンド・リーダー。父親はデンバーの音楽学校教育長で、デンバー交響楽団の指揮者でもあった。ポールも少年時代はヴァイオリンの専門教育を受けている、いわばサラブレッド育ち。
しかしポールは、アカデミックな楽壇に背を向けて、サンフランシスコで大衆音楽のバンドを結成。
このとき、西海岸で評判だったアート・ヒックマン楽団から引き抜いたピアニスト兼アレンジャーが、ファーデ・グローフェ。
ファーデ・グローフェは、1892年ニューヨーク生まれ。彼の家庭も音楽一家で、幼いころからピアノ、ヴァイオリン、和声を母親に、ヴィオラを祖父に学んでいる。1909年から19年にかけてロサンゼルス交響楽団でヴィオラ奏者を勤めるかたわら、劇場やダンス・バンドのピアニストやヴァイオリニストとして出演。音楽の基礎にも精通していたことから、編曲者としても重宝されていた。
つまり「スキャンダルズ」に新加入したホワイトマン楽団の二人は、クラシック畑出身ながらもヤクザな稼業に自ら身を投じた、新しもの好きの変わり者、冒険野郎だったんですね。

ここから先は、ちょっと話が混み合ってくるので……超個人的な独自の言葉を使います。
というのも、一般に使われているクラシック(またはクラシック音楽)という言葉のイメージが、どうも今回の話の流れにはそぐわないんです。
音楽の父と呼ばれるヨハン・セバスチャン・バッハを起点に、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ベルリオーズ、リスト、ワーグナー、マーラーへと連なる、西欧音楽王道の線を、まあ一般的にクラシックと呼んでますね。本当は、小節の区切りがない単旋律の「グレゴリオ聖歌」まで遡った方が、話は正確になるんですが……とにかく本文では、この流れを王道音楽と定義します。またこの西欧音楽王道の作曲法・演奏法を、楽典とします。
まことに勝手ではございますが、ご了承ください。

ジャンルの垣根を越えた3人の音楽家、ジョージ・ガーシュウィン、ポール・ホワイトマン、ファーデ・グローフェが顔を揃えた1922年度版「スキャンダルズ」では、ジョージの兄・アイラの作詞による最初のヒット曲「楽園への階段を昇ろう I'll Build A Stairway to Paradise」も生まれたが、それはまた別の話。
ホワイトマンは、新進気鋭の作曲家ジョージに持ちかけた。「王道音楽の聴衆にも耳を傾けてもらえるような、フォーマルなコンサート用のジャズを書いてくれないか」

ここでも注釈が必要ですね。
1920年代初頭、白人たちがジャズと呼んでいた音楽は、今日ジャズと呼ばれている音楽とはまったく違います。
なにしろジャズという言葉が活字媒体に登場したのは1913年ごろ。
史上初のジャズ録音が1917年2月。しかも演奏は全員白人。それを聴きに集まっていたのも白人。
本場ニューオリンズの売春宿(Jass House)で黒人楽士たちが演奏していた音楽とは、ぜんぜん別物と思ってください。
「ラプソディー・イン・ブルー」初演時のコンサート「近代音楽の実験/アメリカ音楽とは何か」でオープニングに演奏された、オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドの「リヴァリー・ステイブル・ブルース」は、世界初のジャズ録音として知られています。
(聴きたい方はこちらをどうぞ→「Jazzの歴史 JASSとJAZZ」
当時の白人たちがジャズと呼んでいたのは、このような音楽です。

ジャズが、黒人霊歌(ゴスペル)やブルースを起点にして誕生したという通説は、そのとおりなのですが、それが世間に知られるのはもう少しあと。ルイ・アームストロングがキング・オリバー楽団で初レコーディングしたのが、1923年3月31日。フレッチャー・ヘンダーソン楽団に雇われ、ニューヨークで演奏したのが1924年。自身のバンド、ホット・ファイヴやホット・セブンを結成し、精力的に録音を始めたのが1925年。
1920年代に録音されたヘンダーソン楽団やルイ・アームストロングの演奏と「ラプソディー・イン・ブルー」(初演版)を聞き比べてください。かつてのベルリンの壁よりも分厚い隔たりを感じられると思います。
当時の白人たちがジャズと呼んでいたのは、せいぜいリズムにシンコペーションを多用したり、コード進行にブルーノートを加えていたことくらいの、ちょっと毛色の変わった、耳に新しいポピュラー・ミュージックの総称……その程度に考えて間違いないです。

以前から王道音楽や楽典に強い興味はあったものの、作曲できるほどの技量は身につけていなかったジョージは、ホワイトマンの意欲的な計画を聞くだけにしていたのですが……

1924年1月3日深夜、翌日付の「ニューヨーク・トリビューン」紙に、ホワイトマンの広告が掲載されているのを、兄のアイラが見つけた。それには、「ジョージ・ガーシュウィンがジャズ協奏曲を作曲中」と書かれていた。しかもコンサートの日時は、2月12日、エオリアン・ホールに決定している。
ホワイトマンに電話すると……ライバルのバンドリーダー、ヴィンセント・ロペスも「ブルースの進化」というタイトルで似たようなコンサートを企画しているので、こっちはそれよりも予定を早めたいとの返事。
ジョージは新しいミュージカル「優しい小悪魔 Sweet Little Devil」のボストン公演に向かう列車のなかで、さっそく楽曲の構想を練り始めた。

1月7日に「優しい小悪魔」ボストン公演が無事に幕を開け、ニューヨークへ帰ってきたころには、だいたいの枠組みが出来上がっていた。
ジョージはアパートに2台目のピアノを運び入れ、精力的に作曲を開始した。
公演まで約1ヶ月。ジョージがピアノを使ってメロディを1枚書き上げると、それを片っ端からグローフェがバンド演奏用に編曲していった。

「ラプソディー・イン・ブルー」成功の理由:その2
王道音楽の楽典とバンド編成のアレンジに精通した、有能な助手ファーデ・グローフェが作曲に協力した。

「ラプソディー・イン・ブルー」初演時の楽器編成は……独奏ピアノ、木管3(クラリネット、サックス、オーボエ等を適宜持ち替え)、トランペット2、トロンボーン2、チューバ、打楽器各種、バンジョー、チェレスタ、ヴァイオリン8。

2月4日にグローフェの編曲はほぼ終了し、ホワイトマン楽団はリハーサルに入ったが、ガーシュウィンは、自分が演奏するピアノ独奏部分について、コンサート当日の、プログラムが自分たちの番になる直前まで楽譜に手直しを入れていた。
ポール・ホワイトマンは音楽家であると同時に有能なビジネスマンでもあり、今回のイベントを成功させるために、あらゆる手段をこうじていた。公演前のリハーサルに有名な音楽家や記者を約30名招き、宣伝に協力させた(当時の記者は金さえ貰えばどんな記事でもでっち上げるような輩ばかりだった)。
公演当日は、セルゲイ・ラフマニノフ、イーゴリ・ストラヴィンスキー、フリッツ・クライスラー、ミッシャ・エルマン、レオポルド・ストコフスキー、ジョン・フィリップ・スーザなど錚々たる顔ぶれの音楽家や、銀行家などニューヨークの名士たち、批評家などが招待されていた。

「ラプソディー・イン・ブルー」成功の理由:その3
ポール・ホワイトマンのメディア操作が上手くいった。

成功の半分はホワイトマンによるマスコミ操作の成果でしょう。
残り半分が「ラプソディー・イン・ブルー」の魅力によるもの。
しかし、「ラプソディー・イン・ブルー」の半分は作曲者ガーシュウィンによるものですが、あとの半分は編曲者ファーデ・グローフェの功績だと思います。
作曲に着手してから公演まで1ヶ月足らずという時間の問題もありましたけど、最大の難問は、ティン・パン・アレー出身のソングライター、ジョージ・ガーシュウィンに管弦楽のスコアを書くだけの技量がなかったことです。
独奏部をメインに全体の流れをガーシュウィンがピアノで作曲し、ファーデ・グローフェが、シンフォニックな部分を肉付けしていった……完全な共同作業ですもの。素直にガーシュウィンの代表作とは呼べませんですよ。

「ラプソディー・イン・ブルー」が紹介される際に、よくシンフォニック・ジャズと修飾されますけど、これもどうだろう?
初演版の楽器編成は、通常のダンスバンドに8人のヴァイオリンとチェンバロ、ティンパニ等の打楽器が加わっているだけで、弦5部をメインとする王道音楽のシンフォニック(交響楽的)なものではないですし、前述したようにジャズとも呼べない音楽です。

幸いなことに、ガーシュウィンとポール・ホワイトマン楽団は、初演直後の1924年6月に、ビクター・レコードのスタジオで「ラプソディー・イン・ブルー」を録音しており、それは現在でもCDで聴くことが出来ます。(但し、当時の技術では長時間録音ができなかったので短縮版)

ヒストリック・ガーシュウィン・レコーディング
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ヒストリック・ガーシュウィン・レコーディング

ジョージ・ガーシュウィン(ピアノ)
ポール・ホワイトマン&ヒズ・オーケストラ

1. ラプソディー・イン・ブルー
2. パリのアメリカ人
3. オペラ「ポーギーとベス」
4. ラプソディー・イン・ブルー(管弦楽版)
5. 前奏曲第1番変ロ長調
6. 前奏曲第2番嬰ハ短調
7. 前奏曲第3番変ホ長調

RCA 1924年6月録音

この初演版のスコア(総譜)は出版されませんでしたが、ワシントン国会図書館に所蔵されており、ガーシュウィンのピアノ独奏は、ピアノロール(自動ピアノ用の紙製録音テープ)として残されていました。
それらを用いて、1976年に初演当時のバンド版演奏を再現したのが、こちらのレコード。

ガーシュイン:ラプソディー・イン・ブルー
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ガーシュイン:ラプソディー・イン・ブルー

マイケル・ティルソン=トーマス指揮
コロムビア・ジャズ・バンド

1. ラプソディー・イン・ブルー
2. パリのアメリカ人
3. セカンド・ラプソディ

Columbia 1976年 ステレオ録音

たぶん、これらの演奏を聴いた多くの人が、「自分が知ってる、聞き慣れたラプソディとぜんぜん違う!」と感じられたと思います。
それもそのはず、現在ピアノ独奏とオーケストラによって演奏されているスコアは、グローフェによって再度編曲された1942年度版。
楽器編成は……独奏ピアノ、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン3、トランペット3、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ、打楽器各種、バンジョー、チェレスタ、弦5部。
弦5部を主体とした、シンフォニック(交響楽的)な楽器編成に改められております。

「ラプソディー・イン・ブルー」は、いくつかの用意された旋律を、ピアノのカデンツァを間に挟んで連続させた楽曲で、王道音楽の理論、楽典とはまったく異なる流れの中で生まれた作品です。
初演当時の大絶賛は、(前述したように)ポール・ホワイトマンに金で買われた記者によるデッチアゲだったので、ここで専門家による冷静な意見を、ひとつだけ紹介しておきましょう。

(「ラプソディー・イン・ブルー」を)「作品(コンポジション)と呼ぶことはできない。小麦粉と水を合わせた薄い糊で、ばらばらの文節を繋げたものに過ぎない。作曲というものは、旋律を書くこととは違うのだ」

レナード・バーンスタイン(作曲家・指揮者)

これだけ読むと、バーンスタインが「ラプソディー・イン・ブルー」をものすごくバカにしているようにとれるんですけど……そんなことは全然なくって……「ラプソディー・イン・ブルー」は、ニューヨーク・フィル時代からバーンスタインの重要なレパートリーのひとつで、何度も(自身のピアノ独奏で)演奏・録音しています。

ガーシュウィン:ラプソディー・イン・ブルー
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ガーシュウィン:ラプソディー・イン・ブルー

レナード・バーンスタイン指揮 (ピアノ独奏/1)
コロンビア交響楽団(1)
ニューヨーク・フィルハーモニック(2)
アンドレ・プレヴィン(ピアノ独奏/3)
アンドレ・コステラネッツ管弦楽団(3)

1. ラプソディー・イン・ブルー
2. パリのアメリカ人
3. ピアノ協奏曲 ヘ調
1959年(1) 1958年(2) 1960年(3)ステレオ録音
(CBS Columbia) 輸入盤

ガーシュウィン:ラプソディー・イン・ブルー
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ガーシュウィン:ラプソディー・イン・ブルー

レナード・バーンスタイン指揮・ピアノ独奏
ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団

1. ラプソディー・イン・ブルー(ガーシュウィン)
2. エル・サロン・メヒコ(コープランド)
3. アパラチアの春 (コープランド)
4. 弦楽のためのアダージョ(バーバー)
5. 「キャンディード」序曲(バーンスタイン)

Deutsche Grammophon 1982年 デジタル録音

どちらも決定的名演として定評のあるディスクで、バーンスタインに特別な思い入れがなければ、とてもこのような熱演にはなりません。ピアノ独奏だけにスポットを当てれば、バーンスタインほど素晴らしい「ラプソディー・イン・ブルー」を弾いたピアニストは、いません。
バーンスタインは、「ラプソディー・イン・ブルー」を王道音楽としては認めていないけど、大好きな楽曲ではあったのでしょう。

最後になりましたが……
実は、これが最も重要なことです。

「ラプソディー・イン・ブルー」成功の理由:その4
1920年代のアメリカ国民は、「ラプソディー・イン・ブルー」の誕生を待望していた。

20世紀初頭、アメリカは、黒人奴隷という大量の労働力(犠牲)によって、世界でトップクラスの裕福な国家に成長していました。
また、1917年より参戦した第1次世界大戦では、イギリス、フランスの連合国に加担し、戦勝国となりました。その際、大統領ウィルソンの提案により国際連盟の設立が呼びかけられ、アメリカは世界のリーダーとして名乗りをあげたのです。
世界で一番裕福で、世界で一番強い国。
しかし、建国から150年の歴史しかないアメリカには、独自の文化がありませんでした。

もともとは、世界各国からの食い詰め者が流れついた、ボート・ピープルたちの寄り合い所帯です。
イングランド系、アイルランド系、フランス系、イタリア系、ユダヤ系、ロシア系、チャイニーズ系、ヒスパニック系、アフリカ系……それぞれの故郷をルーツとする文化や伝統は持ち込まれましたが、合衆国を代表する、世界に誇れる独自の文化は育っていませんでした。

20世紀に入ると、政変や戦争によって祖国を追われた多くの文化人がアメリカにやってきました。音楽の分野では、ストラヴィンスキー、ラフマニノフ、バルトーク、シェーンベルクなどの作曲家がアメリカに移住しています。
だけど、彼らの音楽は、それぞれ欧州の王道音楽のなかで生まれたものであり、作曲された場所がたまたまアメリカであるというだけの作品です。アメリカの風土と文化によって創り出されたものではありません。

「ラプソディー・イン・ブルー」は、もう何度も書きましたが、王道音楽の楽典に縛られていない、まったく新しい音楽です。ガーシュウィンは正規の音楽教育を受けていない、商業高校中退のソングライターですから、縛られようがないんです。自分が持っているソングライターとしてのテクニックだけで、「ラプソディー・イン・ブルー」を書いている。

そして、ジャズ。
ジャズは他の何処にもない、アメリカだけに生まれた、独自の音楽です。先述したように、これは本物のジャズではないのですが、「ラプソディー・イン・ブルー」をシンフォニック・ジャズと称することで、アメリカは、純国産の音楽文化が誕生したことを、世界に発信したわけです。

私は「ラプソディー・イン・ブルー」を、シンフォニック・ジャズとか、ガーシュウィンの代表作とか呼ぶのは、どうも気持ち悪いのですが、20世紀アメリカ音楽と呼ぶのには躊躇しません。そうとしか呼べない、まったく独特な楽曲だと思うのです。

というわけで……「ラプソディー・イン・ブルー」を演奏・録音しているオーケストラは、ほとんどアメリカの楽団に限られています。あとはイギリスと日本が少々。ドイツ、オーストリア、フランスといった音楽王道のメイン会場は、特別な催しなどでない限り、絶対に演奏しません。これをクラシック音楽とは認めていないからです。
日本に例えると分かり易いかも。
例えば、服部良一や宮川泰、都倉俊一が交響曲を書いたとして、楽壇はその作品を、伊福部昭、石井歓、別宮貞雄の流れの中で、評価したり論じたりはしないでしょう。所謂色物扱い。普段から流行歌と仲良しなテレビなどは騒いでくれるかもですが、アカデミックな場所からは閉め出しを食らうでしょう。
(そんな垣根を取り払おうとしたのが、黛敏郎の「題名のない音楽会」だったのですが……あ、もしかして黛敏郎は、日本のバーンスタインだったのかも?)

半分以上はメディア操作による、作られた評判でしたが、楽典とはまったく切り離された場所で作られた「ラプソディー・イン・ブルー」は、王道音楽の住人たちをも驚かせました。
「ラプソディー・イン・ブルー」を成功させた後、ガーシュウィンは、ラヴェル、プロコフィエフ、ハイフェッツ、ラフマニノフ、シェーンベルクなどと出会い、交流を持つようになります。彼ら王道音楽の住人たちは、ガーシュウィンの音楽をどのように捉えていたのか?……長くなったので本日はこれまで。続きは次の機会に。

今回このページを書くにあたって、数冊の書籍を参考に読んだのですが……翻訳されている方々はクラシック畑の人ばかりで、映画やポピュラー・ミュージックに関する記述が、ちょっと、どうも……
例えば、1945年にワーナー・ブラザースで製作されたガーシュウィンの伝記映画を、原題のまま『ラプソディー・イン・ブルー』と紹介している。これじゃDVDやVHSを探している人に不親切。邦題『アメリカ交響楽』って、日本公開時のタイトルで記述してくれなきゃ。
「言い出しかねて」の邦題で定着している「I Can't Get Started」を「始められないじゃないか」としたり、「But Not For Me」を「取り残されて」と訳すのは、どうかなと。
1964年のビリー・ワイルダーの映画『キス・ミー・ステューピッド』って、一瞬、ん? と考えてしまう。ちゃんと『ねえ!キスしてよ』って邦題で書いてくれよ。
MGM映画の邦題『巴里のアメリカ人』が、『パリのアメリカ人』となっているのも違和感あるけど、そこまでキチンと翻訳されているのは皆無。

ちゃんとギャラが支払われるのなら、ガーシュウィンの伝記は書いてみたいな。ローリング・トゥエンティのアメリカは面白いから。

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