soe006 37年ぶりの妻

この日記のようなものは、すべてフィクションです。
登場する人物、団体、裏の組織等はすべて架空のものです。ご了承ください。

37年ぶりの妻

February 26, 2004

街を歩いていて、偶然、妻と出会った。
37年ぶりの再会だった。
「お久しぶり」
最初は誰か分からなくて戸惑っていると、
「あなたの奥さんよ」と言ってニコリと笑った。

無邪気な笑顔は、37年前と同じだった。
口許の皺と化粧が、相応の年齢を感じさせる。
だけど、瞳の輝きは昔と同じ。ちっとも変わっていない。
彼女が誰なのか分かってからも、少しの間、俺は曖昧な微笑を返しながら黙っていた。
ちょっと照れ臭かった。
ズボンのポケットに手を突っ込み、小銭が幾ら残っているか調べながら言った。
「お茶でも飲まないか?」
「そうね。お昼まだでしょ? 近くに美味しいお店あるけど」
財布の中身を気にしながら、
「じゃ、そこに行こう」と、俺は返事した。

妻が案内してくれた店は、表に看板を出していない、普通の民家のような造りだった。
「和食だけどいいかな?」
この手の店が、ちょこまかした小皿を数枚並べて、べらぼうな値段をふっかけていることは、12チャンネルを見ているから知っている。
たぶんメニューは無く、その日に仕入れた食材を適当に調理して、本日の昼定食として出す。メニューがあったとしても値段は書かれていない。
玄関先で地蔵のように固まっていると、
妻は、「洋食の方が良かった?」と、訊いた。
「いや、いまちょっと、懐が寂しいから、この店は……」
泥のように、もごもご口を動かすしか術がない俺。
「任せて。37年ぶりの再会だもの」
妻は例の無邪気な笑顔で軽く言うと、慣れた足取りで店に入っていった。
俺は、夫というより下僕のような気分を味わいながら、彼女に続いた。

2人は八畳の和室に案内された。
総檜造りの、簡素だが、でも銭がかかっているのは素人目にもはっきりと分かる、調和のとれた静謐なたたずまいの部屋だった。
菜の花を生けた小振りの一輪挿しが、卓の上に載っている。
近所の土手にわんさか咲き乱れている菜の花も、こうしてみると、なかなかいいものだなと思った。
質素な和服姿の、女将とおぼしき妙齢の女性が、「本日のお品書き」を2人の前に置いた。
「きみに任せるよ」
声には出さず、軽く目配せする。
妻はすべて心得ているという自然な態度で料理を注文した。
「お飲物は如何しましょう?」と女将が訊く。
「ビールでも飲む?」
「いや、昼間は飲まないようにしているんだ」
「……そう」
たった一言の短い返事に、俺は妻の失望と孤独を、微かに感じた。
「でも久しぶりだし、1杯だけなら」
妻は甦ったかのように生気を取り戻した。
「じゃぁお酒にしない。ね、いいでしょ」
「うん」
妻は嬉しそうに日本酒を注文した。

春の柔らかな陽差しが、和やかな雰囲気を醸し出している。
中庭の古木が、紅梅を満開にさせている。ほのかに漂ってくる梅の香り。
料理が運ばれてくるまでの短いあいだ、2人は、天気のことや庭の植木のことなど、どうでもいいような話題で時間をつぶした。
少しでも意味のある言葉を交わすと、どうしても現在のお互いの立場に言及せざるを得なくなる。
2人は用心深く、繊細な注意を払って中身のないお喋りを続けた。

「ね、あれやってよ」
妻は、湯飲みのお茶を庭に捨て、それを俺に握らせると、酒を酌しながら無邪気に笑った。
「いや、あれはマズイだろ」
「やってよ」
「しかし……」
「やって、やってよ……」
笑いながら繰り返す妻の「やってよ」には、涙が滲んでいるように感じられた。
俺はしかたなく「うん」と頷き、湯飲みになみなみと注がれた酒を、一気にグイとあおった。

「ばかやろう! 俺が稼いだ銭で俺が酒を呑んでなにが悪い! 文句あるなら出ていけ!」

妻は腹を抱えて笑い転げた。
あまりにゲラゲラが続くので、引きつけを起こしたのじゃないかと心配するほどだった。
俺も愉しくなって、ゲラゲラ笑った。
妻は自分の笑いが治まると、急に真顔に戻り、叫んだ。
「あんたぁ、あたしが悪かったんだよぉ、カンベンしておくれよぉ!」
今度はこちらの腹の皮がよじれる番だった。腹が痛くて痛くてたまらない。
妻は続ける。
「ごめんなさい、このとおりだから、お願いだから、別れるなんて言わないで」
俺も芝居を続けることにした。
「うるせえ、お前が出て行かねえんなら俺が出ていく!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「ばかやろう、放せ、放せってんだよ、このやろう」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「ばかやろう、このやろう」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

俺は、半分くらい笑いながら、残りの半分くらいは、本気で妻を怒鳴っていた。
妻も、半分くらい笑いながら、残りの半分くらいは、本気で泣いて謝っていた。
37年前と違って、卓袱台をひっくり返さなかったのは、大人としての常識が思いとどまらせていたからだが、妻はそこまでトコトンやることを、期待していたのかも知れない。
卓袱台をひっくり返すことで決着するストーリーは、クライマックスを迎えることが出来ず、
「ばかやろう!」と「ごめんなさい!」の応酬がいつまでも繰り返された。
37年ぶんの空白を埋めるかのように、2人は笑い転げながら、怒鳴り合いを繰り返した。

店の勘定は妻が済ませた。
俺たちは、駅前まで並んで歩いた。
2人とも無言だった。
「あの頃は……」と「いまは……」の二つの言葉を交互に、口に出そうか出すまいか、迷った。
いまここで、2人がそれを話題にしたからといって、未来が良い方向に変わることはない。
過去を変えることもできない。
妻も同じように考えていたと思う。
2人とも、別れのきっかけを探しあぐねながら、駅前まで歩いた。
「俺、電車だから」
「そう。私はタクシー」
「じゃ」
「うん」

自動券売機で切符を買って改札を抜け、ホームの階段を上りながら、無性に背後を振り返りたくなった。
振り返ったからといって、そこに妻の姿があるとは限らない。
そこに妻の姿があったからといって、2人の未来を変えることは出来ない。
それに、過去も変えられない。
妻の視線から逃れるような、嫌な気分を味わいながら、タイミングよくやって来た電車に飛び乗った。

ガタンとゴトンのリズムを反復させて走り出す電車。
妻と俺との距離が拡がってゆく。ふたたび会えることはないだろう。
ふと俺は、妻の名前を忘れていたことに気付いた。
不意に苦笑がもれた。

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