バド・パウエルの代表作
超オススメ! バド・パウエルを聴くなら、まずこの1枚から。
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Bud Powell
Blue Note
01. Bouncing with Bud
02. Wail
03. Dance of the Infidels
04. 52nd Street Theme
05. You Go To My Head
06. Ornithology
07. Bouncing with Bud [Alternate Take #1]
08. Bouncing with Bud [Alternate Take #2]
09. Wail
10. Dance of the Infidels
11. Ornithology
12. Un Poco Loco
13. Over The Rainbow
14. A Night In Tunisa
15. It Could Happen To You
16. Parisian Thoroughfare
17. Un Poco Loco [Alternate Take #1]
18. Un Poco Loco [Alternate Take #2]
19. A Night In Tunisa
20. It Could Happen To You
01-11
ファッツ・ナバロ(tp)、ソニー・ロリンズ(ts)、バド・パウエル(p)、トミー・ポッター(b)、ロイ・ヘインズ(ds)
Recording Date: Aug 8, 1949
12-20
バド・パウエル(p)、カーリー・ラッセル(b)、マックス・ローチ(ds)
Recording Date: May 1, 1951 |
バド・パウエルが1949年-53年にブルーノートに録音した演奏を、別テイク4曲と未発表1曲を追加して、録音順に収録したデジタル・リマスター完全版。
自由にシンコペイトされた和音を、強烈なタッチで弾きだす左手。情熱的でホーンライクなフレーズを、流動的にめくるめく紡ぎ出す右手。力強く躍動的でありながら耽美な響きを醸しだす。モダン・ジャズの原点=ビ・バップ・ピアノのスタイルを確立し、ピアノ・ジャズの歴史に決定的な影響を与えた、天才バド・パウエルの代表作。
ファッツ・ナバロとソニー・ロリンズをフロントに置いた49年録音の「バウンシング・ウィズ・バド」(1曲目)、「異教徒たちの踊り」(3曲目)、「52番街のテーマ」(4曲目)、「ウエイル」(9曲目)では、このあとナバロと殴り合いの喧嘩があったのではと思えるほど激しいバトル・プレイが聴ける。 1951年のトリオ・セッションもスリリング極まりない白熱の名演。
おすすめの1曲
1951年のトリオ・セッションから「ウン・ポコ・ロコ Take1」。
なんでしょうね、このヘンテコなタイトルは。「ウン・ポコ・ロコ」、笑っちゃうよ。日常生活の場では普通に口に出せない。「ウン・ポコ・ロコ」。語感から日本人は「うんKO」と「TI んぽこ}を連想してしまう。イタリア人だったら違うイメージを持つだろうけど。
マックス・ローチの煽りが凄い。「take1」のしょっぱなから飛ばしまくり。主役の座を奪われてはなるものかと、これにガンガン応じ、スキあらば主導権を奪還しようと躍起になって突っ走るバウエルの猛烈ピアノ。まさに神業。これがモダンジャズだ!
ジャズに癒しを求めている方、ぜひこの1曲を聴いて、心身ともに癒されてください。これで癒されなかったら、モダンジャズに向いてないです。
パウエルが真に天才を発揮していたのは、精神病院で電気療法を受ける前の、『アメイジング Vol.1 』録音の前後 47〜53年で、モダン・ピアノ・トリオの聖書と称される『バド・パウエルの芸術』(47年/Roulette)、バラッド・プレイが美しい『ジャズ・ジャイアント』(49年/Verve)、圧倒的なスピードでピアノが疾走する『ザ・ジニアス・オブ・バド・パウエル』(50年/Verve)、ソニー・スティットとのインタープレイがスリリングな『スティット、パウエル&J.J.』(49年/Prestige)など、名作が揃っている。
ブルーノート・レーベルの稼ぎ頭、「クレオパトラの夢」で有名な『シーン・チェンジズ/アメイジング Vol.5 』(58年/BlueNote)は、再発売されるたびにトップセールスを記録する超人気盤。
晩年の演奏が聞けるパリ録音も、全盛期の迫力こそないが、枯れた哀感が味わい深くファンに根強い人気がある。
バド・パウエルのベストセラー・ディスク
バド・パウエル プロフィール
1924年9月27日、ニューヨークの音楽一家に生まれた。
6歳からクラシック・ピアノを習っていたが、当時の楽壇は黒人に対する偏見が強く、15歳でブロンクスのハイ・スクールを中退し、地元のバンドに加わってジャズの演奏を始める。4歳年上のセロニアス・モンクに気に入られ、41〜43年「ミントンズ・ハウス」でチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーらと共演。
1943年、クーティ・ウィリアムス楽団に加入し、44年に初レコーディング。44年末に同楽団を退団した以降は、ニューヨーク52番街をメインに演奏活動を続け、天才バップ・ピアニストとして評判を高めたが、深酒と麻薬によって体調を崩し、45〜47年は入退院を繰り返す。
47年1月、カーリー・ラッセルとマックス・ローチとトリオを結成し、ルーストに初リーダー・セッションを録音(『バド・パウエルの芸術』)。このときの編成(ピアノ、ベース、ドラムス)はピアノ・トリオの基本フォーマットとして定着した。
49〜51年は自己のトリオを率いて「バードランド」などに出演。ヴァーヴ、ブルーノート、プレステッジに名演を残すが、51年8月に麻薬所持の容疑で逮捕される。獄中で再び体調を崩し精神病が再発。ベルビュー病院にて電気ショック治療を受け、53年2月に退院。
53年から59年まで、ときおりレコーディングはあるものの、出来不出来の差が激しく、引退同然の暮らしをおくる。
1959年に家族と共にパリに居を移し、旧友ケニー・クラークらと演奏。このころの演奏は『バド・パウエル・イン・パリ』(63年/Reprise)や『姿なき檻』(64年/BlackLion)、デクスター・ゴードンの『アワ・マン・イン・パリ』(63年/BlueNote)などで聴くことができる。
64年の夏にアメリカに帰国したものの、体調は悪化するいっぽうで、ミュージシャン仲間に小銭を借りたりしながら生活していた。
1966年7月31日、肺結核と栄養失調で死去。享年41歳。