ノーマン・グランツとVerveの変遷
November 7, 2003
前回「アニタ・オデイとノーマン・グランツ」の続きです。
Jazz大好き青年だったノーマン・グランツは、趣味が高じて、ついに自分でコンサートをプロモートするようになりました。このときグランツは弱冠25歳!
旗揚げ公演は、1944年7月、ロサンゼルスのフィルハーモニー公会堂にて、第1回「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック」(JATP)。
レスター・ヤング、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカーなど、大物ジャズメンを一堂に会したこのコンサートは大成功を収め、翌年からは全米各地を巡業し、毎月のように行われるようになりました。
グランツは常に大物ミュージシャンをフロントに揃え、豪華な顔ぶれのコンサートを行っていましたが、新人発掘の才能にも長けていました。
アルコールでボロボロになっていたアニタ・オデイを再起させた話は、上にも書きましたが、彼のJazzに対する洞察力と愛情によって陽の目を見たミュージシャンは他にも大勢います。
1949年、コンサートの打合せでモントリオールを訪れていたグランツは、タクシーのラジオから流れていた生放送のピアノ演奏を聴き、行き先を急遽変更、クラブに出演していたオスカー・ピーターソンを、即決でJATPのメンバーに加えたエピソードは有名です。
JATPのメンバーは流動的でしたが、44年から50年代末にかけて、次のようなミュージシャンが参加しています。
The Complete Jazz At The Philharmonic On Verve: 1944-1949
Verve
レスター・ヤング、ディジー・ガレスピー、ロイ・エルドリッジ、ハリー・エディソン、J・J・ジョンソン、チャーリー・シェイバーズ、ビル・ハリス、バディ・デ・フランコ、ライオネル・ハンプトン、チャーリー・パーカー、ベニー・カーター、ウィリー・スミス、イリノイ・ジャケー、フリップ・フィリップス、ベン・ウェブスター、コールマン・ホーキンス、ナット・コール、アート・テイタム、ハンク・ジョーンズ、オスカー・ピーターソン、レス・ポール、バニー・ケッセル、ハーブ・エリス、レイ・ブラウン、バディ・リッチ、ルイ・ベルソン、ジーン・クルーパー、ルイ・アームストロング、エラ・フィッツジェラルド、ビリー・ホリディ…… |
グランツの方針は、上にも書きましたが、「ミュージシャンに絶対の自由を与えて好き勝手にやらせる」……真に意欲のあるジャズメンにとって最高のプロモーターでした。
グランツは、これらJATPのコンサートを第1回公演から録音していました。
MGMの編集マンだったグランツのことですから、映画スターの演技がフィルムに永遠に残るように、ホットなミュージシャンたちの熱演を、永遠の記録として残しておきたかったのでしょう。
しかし、買い手は付きませんでした。
アマチュアの機材での録音だったので、基本的にノイズが多いし、観衆の拍手や声などもかなり入っています。
演奏内容も、簡単な打合せだけでスタートしたジャム・セッションだったので、音が外れたり、リズムが混乱しているところも多々あります。
ドーシー楽団やグレン・ミラー楽団などの、洗練されたダンス・ミュージックが全盛の頃だったので、アドリブをメインにした野放図なジャム・セッションは受け入れられなかったのでしょう。
「これは売り物にはならないよ」……大手のレコード会社に断られたグランツは、それでも諦めきれず、1946年、資金を調達して自己のレーベル「Clef」を設立。JATPコンサート実況盤のリリースを開始します。
第2次世界大戦終結後、ダンス・ミュージックの人気は次第に衰退し、大衆はホットなジャム・セッションが収められた音楽を求めるようになりました。
グランツの狙いは大当たり。レコードは売れ、JATPの公演は全米を熱狂させます。
JATPの人気はレコードによって、やがて世界中に広まり、ヨーロッパに続いて日本でも、1953年11月、数日間にわたって有楽町・日本劇場でコンサートが行われました。
J.A.T.P. in Tokyo
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JATPの成功によって金銭的に余裕ができたグランツは、ライヴ録音だけでなく、設備の整ったスタジオでのレコーディングも手掛けるようになりました。1953年、レーベル名も自分の名前を冠した「Norgran」と改め、スタジオ録音盤を矢継ぎ早にリリースします。
1956年、12インチLP時代をむかえ、レコードによるロング・プレイが可能となったのを期に、グランツはそれまでSP盤や10インチLPでリリースしてきた「Clef」と「Norgran」のカタログを統合して12インチLP化する計画を決行。 同時に、エラ・フィッツジェラルドと専属契約を結び、「Verve」レーベルを新たに立ち上げます。
Verveは、トラディショナル中心の1000番台(約30枚)、オスカー・ピーターソンを中心としたポピュラー系の2000番台(約160枚)、ブルース系の3000番台(8枚)、エラ・フィッツジェラルドのソングブック・シリーズを含む4000番台(約70枚)、ステレオ録音の6000番台(約170 枚)、大物ジャズメンを起用した8000番台(約850枚)……これら膨大な数のレコードを、レーベルがMGMに売却される1960年12月までの僅か5年の間に次々とリリース、Jazzの名門レーベルと急成長しました。
その後、Verveはレーベル名は維持されたものの、雇われプロデューサーのクリード・テイラーによる、ウエス・モンゴメリーの『カリフォルニア・ドリーミング』や、ジミー・スミスの『ザ・キャット』、スタン・ゲッツとアントニオ・カルロス・ジョビンによる一連の「ボサノバ」アルバムなど、売れ筋のサウンドに路線を変更。
1972年、ポリドール(現在のユニバーサル)に吸収され、Jazz部門の制作は打ち切られてしまいました。
(80年代の中頃に復活しました)
ノーマン・グランツは、1972年にJazzプロデューサーとしての復帰を賭けて、旧Verveに縁のあるエラやピーターソンと専属契約を結び、「Pablo」レーベルを設立。
復活第1弾は、かつての栄光JATPの再現とも言える、オールスター・ジャム・セッションの『ジャズ・アット・ザ・サンタ・モニカ・シヴィック '72』。
Jazz at the Santa Monica Civic '72
Pablo 出演メンバーは、エラ・フィッツジェラルド、カウント・ベイシー楽団、ロイ・エルドリッジ、ハリー・エディスン、エディ・ロックジョウ・デイビス、スタン・ゲッツ、オスカー・ピーターソン、トミー・フラナガン、アル・グレイ、レイ・ブラウン、エド・シグペンほか。 |
70年代はフュージョン全盛でしたが、この3枚組レコードに収められた真っ当なJazzは、多くの愛好家に歓迎されました。
以後、1987年に健康上の理由で引退するまで、グランツは大物ジャズメンによるレコーディングを、旧Verve時代に劣らぬ勢いで精力的にリリースします。
引退後、レーベルはFantasy傘下となります(PabloのレコードがOJCシリーズとしてCD化されているのはこのため)。
ときおりPabloのカタログに、アート・テイタムやベン・ウェブスターなど、'40〜'50年代の古い録音が含まれているのは、Verve時代にレコーディングしたまま未リリースだったマスターテープを、グランツが倉庫から引っぱり出してレコード化していたからです。
Pabloは、グランツ・プロデュース時代のVerveの再現だったので、基本的にミュージシャン本意の良質なレコード作りがなされていましたが、Verveのリメイクとしか捉えられないマンネリなレコードばかりがカタログに並ぶことになりました。
また、ミュージシャン自身が高齢化していたため、かつてのJATPで聴くことができたホットな演奏は望めませんでした。
しかしJazzが一番元気だった時代を生き抜いてきた大物ミュージシャンたちの演奏には、滋味深いものがあり、エラ・フィッツジェラルドとジョー・パスによるデュエット(俗に「エラ・パス」と呼ばれている)シリーズなどは、実にシミジミとしてイイものです。