老人たちのきた道
September 22, 2004
個人的な話題で恐縮ですが……
ウチの母親は、炒めて混ぜるだけで出来ちゃう麻婆豆腐の素だとか、ふりかけて混ぜるだけで出来ちゃうタラコ・スパゲティの素だとか、炒めて混ぜるだけのドライ・カレーの素だとか、親子丼の素だとか、炊いたご飯に混ぜるだけのおにぎりの素だとか、お湯を注ぐだけの味噌汁の素だとか、茹でた麺にかけるだけのミート・ソースだとか、(あえてメーカー名は書かないけど)インスタントな副食製品(←なんて呼んだらいいの?)が大好きで、キッチン・ストッカーにはこの手の箱や袋が常時どっちゃり入っています。
都会で一人暮らししていた頃は俺も重宝していたけれど……一日中家に居てワイドショー番組ばかり見ている暇があるんだから、味付けくらい自分でなんとかしたらどうなのよ?
「こんなの化学調味料混ぜてあるだけで、栄養とか無いんだから、やめた方がいいですよ」
「だって便利なんだもの」
「味付けの基本はさしすせそなんだから、それらを加減して組み合わせりゃ普段の料理は出来るんです。ソース、カレー粉、マヨネーズ、料理酒、みりん、豆板醤、山葵、芥子、七味唐辛子、ブラックペパー、ホワイトペパー、山椒、パセリ、シナモン、ミントまであるじゃないですか。なんで自分でやろうとしないの? とろみが欲しけりゃ片栗粉を水で溶かせば済むことでしょう?」
「だって簡単なんだもの」
それでいて、ヒジキの煮物だとかオカラ煮染めなんかは、絶対にスーパーのお総菜コーナーで買おうとしない。
「だってヒジキだってオカラだって、材料はすごく安いのよ。スーパーで売ってるのって、こんなちっちゃなパックに入って200円とか300円とか。オカラ 100円ぶん買ってきたら、山ほど作れるじゃないの。ヒジキだって乾燥したのを水で戻せば、食べきれないくらい作れるじゃないの」
「それと同じですよ。あらかたの調味料は揃ってるんだから、自分で作れば「簡単で美味しいちょこっとどんぶりの素」とか買わなくっても済むんです。ほらこの箱に印刷されてるでしょう、原料は食塩、鰹エキス、昆布エキス、粉末醤油、タンパク加水分解物、アミノ酸等調味料、香辛料、カラメル色素、酸化防止剤……こんなもん自分で出汁とって醤油とみりんと砂糖と塩でちゃちゃっと味を整えたら、材料代は一人前10円もかかりませんよ」
「でも自分で作ったら美味しくなかったんだもの」
「それは経験と不断の努力でカバーできます。いつもやってれば次第に美味しく出来るようになります。肉じゃがだって、しょっちゅう作ってるから味付けが安定して、いつも美味しく出来るんです。最初は多少不味くても我慢しますから、もうこんなの買うのやめなさい」
「肉じゃがも、近ごろは「美味しく作れる肉じゃがの素」を使ってるのよ」
「げっ、そんなもんまで売ってるんですか」
「だって便利なんだもの」
「分かりました。では明日から俺が食事を作るようにします。自分で買い物に行って献立して、自分で味付けして作ります」
「じゃぁ私はなにをすればいいの」
「ポテチでも囓りながら、夕方のワイドショーでも見ててください」
「ワイドショーは朝と昼だけで充分ですよ」
「ゲートボールとか俳句の会とか、いろいろあるでしょう」
「ああいうのは嫌いなんです、だって老人しかいないんですもの」
「自分を幾つだと思ってるんですか」
「奥様は18歳」
「お腹がダブついて腰も曲がってるし皺も多い。最近目立つようになってきた手足の痣は、老人特有の色素沈着に他ならない。髪だって俺が毎月染めてあげてるじゃないですか。それでも18歳だと言い張る気ですか」
「なんてったって18歳」
「老人会に入れば、福祉センターの温泉だって無料で入浴できるんですよ」
「周囲が年寄りばかりだと、自分まで老人っぽくなっちゃうから嫌なんですよ……きっとアレですね」
「なんですか、アレって」
「私から家事を取り上げて、早く老けさせようって魂胆ですね。老人会に入れて周りのお年寄りと同化させて、福祉センターの職員から「おばあさん」って呼ばれて、それでなんとなく「自分はおばあさん」って自覚するように促されて。とっとと老衰して死んじまえばいいと思っているんでしょう」
「それはかなり飛躍した考えです、無理があります」
「だったら私から家事を取り上げないでくださいよ」
「だったら料理の味付けくらい自分でやってください。自分のアタマと五感を使ってれば老けません。部屋に閉じこもってワイドショーばっかり見てるから老けるんです。便利だからってこんなものばかり使って味付けしてるから老けるんです」
「だってチョー簡単でチョー便利で、チョー美味しいんだもの」
「チョーですか」
よくよく話を聞いてみると、どうやらアタマ半分惚けの老母は、なんと呼んだらいいか分からないインスタントな副食製品のパッケージに印刷されている写真を見て、「あー、これ美味しそうだわー」とか思って買ってきてるらしいです。
ときどき、「あー、これグリンピースが入ってなーい」とか文句をたれています。
「どれどれ……ほら、ここを見なさい。原料名の欄にグリンピースって一言も書いてないですね」
「でも箱の写真見ると、こんないっぱい」
「写真は調理の一例です、イメージ画像ですって、あなたの視力では解読不可能な微細な文字で書いてありますよ」
「イメージ画像ってなんですか?」
「簡単に分かりやすく言えば、あなたのアタマの中と同じように薄ぼんやりとした妄想みたいなもので、実物とは一切関わりござんせん、ってことです」
「う〜ん、騙された。この商品はもう二度と買わない」
などと1ヶ月前に宣言していたはずの麻婆豆腐の素が、キッチン・ストッカーに3個も入ってます。
「だって特売で安かったんだもの」
話題は急に変わりますが……
チャン・イーモウ監督の『初恋のきた道 我的父親母親』って、一般的に凄く評価が高いですね。
チャン・ツィイーのカマトト・チックなカメラ目線、アイドル映画の定番ショットが連続して、それがもう完璧なそれで……振り返る少女のオサゲの振れ方、歩き方、走り方、見つめて見つめて、声を掛けられ恥ずかしそうに微笑んで、先生の一言一句に一喜一憂したりして、追いかけて追いつけず、転んでドンブリを割って泣き、髪留めをなくして探して、それを見つけて……見ている間ずっと照れくさくって仕様がありませんでした。
これ、どういうことだろう。
(ここからは俺の推測&邪知)
当初チャン・イーモウは、前作の『あの子を探して 一個都不能少』と同様に、貧村を舞台にした学校の映画を作ろうとしていたのでしょう。脚本(パオ・シー)があがった時点まではそうだったのでしょう。
『あの子を探して』は出演者全員が素人で、それが話題にもなったし作品の評価にもつながった。で、監督は素人相手の映画作りに味をしめ(プロの役者と仕事するよりも、経験のない素人に演技を仕込むのが楽しいという監督は多い)、今回も演技経験のないフレッシュな新人を求めて主役の女の子のオーデションを行った。
そこに現れたのがチャン・ツィイー。
彼女を一目見て、誰よりも監督自身がぞっこん惚れ込んだ。
役者としての惚れ込みだったのか、素のチャン・イーモウが一人の男性として惚れ込んだのか、それは定かではない。たぶん、ニキビ・フェイスの男子中学生がグラビア・アイドルに対して抱くような、そんな感情ではなかったのかと思う。
監督は軌道修正した。恋は盲目(そんな内容の歌もあったっけ?)、
今度の映画は、彼女の魅力がいっぱいのアイドル映画にしよう。
だから、貧村で盲の母親と二人暮らししているヒロインは、(これまでのイーモウ映画のヒロインとは異なり)ナチュラルなメイクが施してある。重労働のはずの水汲みにだって生活臭はない(たぶん撮影時、あの天秤棒に下げられた桶のなかに水は入っていない)。綺麗な景色と照明が、常に彼女を取り巻いている。前作『あの子を探して』やコン・リー主演の映画と比べてみれば一目瞭然、『初恋のきた道』はそれまでの作品でテーマとしてきた、貧村という地域に深く根ざした因習も所得格差で悩む中国の経済問題も、まったく眼中にない。
決定的なのは、映画のプロローグとエピローグにあたる現在のパートをモノクロームにしたこと。これでツィイーが登場したときの華やかさ、彼女の魅力がいっそう際だった。
これは、確実に、チャン・ツィイーを看板にしたアイドル映画であります。
いい歳したオジサンの観る映画ではありません。
(「萌え〜」とか平気で口にできる変態系のオジサンを除く)
そんな映画ではありますが、最初と最後にチョットだけしか現れない、年老いた現在のチャオ(チャオ・ユエリン)の姿が、実に泣けるんですね。
夫が死んでからずっと、寒いなかを息子が迎えに来るまで学校の前に座っている姿を見ただけで、もう目頭がじんと熱くなりました。中盤のカラー・パート抜きにしても充分泣ける映画です。
メインのパート(過去の出来事)を現在のパートでサンドイッチにしてナレーションで進行させるという手口は、『タイタニック』と同じですが、
(映画の最初の方で中国公開版のポスターが写ってました。これは真似した意識したからね、というジェームズ・キャメロンへのメッセージなのでしょうね)
『タイタニック』でも若い男女の恋愛はどうもピンとこなくって、ラストの、枕元に並べられたその後の彼女の人生を綴った写真立て〜眠りにつく老婆〜夢の中という段階になって、俺はわーっと涙が溢れてきちゃったんですね。
以前は、志し半ばに死んでゆく若者たちに涙腺を刺激されていましたが、最近は年寄りに泣かされることが多くなっちゃいました。
う〜む、敬老の日に間に合わせようと思ってたのになぁ。 歳をとると、話が長くなってイケマセンですなぁ。