チャップリンの映画音楽(1)
July 27, 2005
はい、みなさん今晩は。
今夜はチャップリンについてお話しましょうね。
チャップリン、ご存知ですか?
はい、ドタ靴はいてステッキ持って、チョビ髯生やしてる? そう、あんたもご覧になったことあるんですね。まぁお若いのに偉いですね。
今夜はそのチャップリンが作曲した音楽のお話です。
なに? チャップリンはサイレントの喜劇役者だろ、
作曲ってどういうことや?
そうですね、チャップリンはパントマイム、ドタバタ喜劇の名人でした。それと同時に優れた作曲家でもあったんですね。ご覧になったチャップリンの映画に、伴奏音楽が付いてませんでしたか? あれ、チャップリン自身が作曲してるんですよ。
チャップリンはキチンとした音楽教育を受けていません。小さいときから舞台に立って地方巡業にも出ていましたから、学校にもほとんど行っていないでしょう。だから自分で楽譜を書いたりは出来ませんでした。しかしボードビルの舞台では、ヴァイオリンを弾いていました。見よう見まねで覚えたヴァイオリン。楽譜もろくに読めませんから、曲のだいたいの感じをつかんで、あとは即興、アドリブ演奏です。これが後々、自分の映画に伴奏音楽を付けるときに役立ってくるんですね。
チャップリンの映画を観ていますと、ここぞという見せ場には必ずといっていいほどヴァイオリン演奏の音楽が付いています。『黄金狂時代』『街の灯』『モダン・タイムス』、みんなヴァイオリンです。『ライムライト』では実際に演奏している場面もありました。あの音楽も実に美しかったですね。
だけど映画の音楽にはラッパや太鼓の音も聞こえてくるじゃないか。他の楽器はどうしたんだ、楽団の人たちに口頭で指示したのか?
あんた、鋭いところを突いてきますね。
チャップリン映画の音楽はどのようにして創られたのか。それをお話しする前に、映画音楽の歴史について、ちょっと勉強しましょうね。
映画が出来たばかりの頃、その頃は映画のことを活動写真と呼んでいました。写真ですから、目で見て愉しむものです。いまではサイレント(沈黙)映画と呼ばれているように、音はありません。スクリーンに動く写真が映写されるだけのものです。
その後いろんな技術者が研究に研究をかさねて、フィルムに音を記録させる方法を開発しました。
1923年に「フォノフィルム」というのが作られました。日本では大正14年(1925年)、淀川長治さんが16歳のときに、神戸で封切られています。ダンスの場面になると、ダンス音楽が聞こえてきて、音楽にあわせてスクリーンの人物が踊ります。ただもうそれだけで吃驚仰天してしまい、その夜、淀川少年は興奮で眠れなかったそうです。
このデ・フォレスト博士が発明した「フォノフィルム」のシステムを、皆川芳造という貿易商が研究して、1927年に『黎明』という国産初のトーキー映画が製作されています。監督は小山内薫。しかしこの時点でトーキーはまだ実験段階で音声も芳しくなく、『黎明』はお蔵入り、つまり公開見送りになってしまったんですね。
1926年に『ドン・ファン』という音楽付きの映画がアメリカで公開されました。
フィルムを上映しながら同時に音楽のレコードを演奏する、ヴァイタフォン方式というもので、音質はフォノフィルム方式よりずいぶんよくなっていたそうですが、これはあまり話題になりませんでした。というのも、サイレント映画には、以前から伴奏音楽が付いていたからなんですね。
当時は劇場に雇われた楽士たちが、映像にあわせて、生演奏で伴奏するのが当たり前でした。これはもう映画史の初期の段階から、リュミエール兄弟が巴里で史上初の映画を劇場公開した1895年の、その数ヶ月後には、上映中にピアノの伴奏が付くようになっていました。立派な一流劇場は30人編成のオーケストラが、小さい小屋でもピアノかヴァイオリンの伴奏がありました。『真昼の決闘』や『OK牧場の決闘』などの西部劇で有名な作曲家、ディミトリ・ティオムキンも、学生時代はアルバイトで映画館のピアノ弾きをやっていたそうです。サイレントといっても、映画館の中は音楽があふれていたんですね。
ヴァイタフォン方式というのは、生の演奏がレコード演奏に替わったってだけですから、当時の人には、だからナンヤネンって感じだったのでしょう。
でも、そのとき演奏されたレコードは、世界初のサントラ盤ということになりますね。
『ドン・ファン』上映用に録音されたレコードの作曲はW・アクストとD・メンドーザ、演奏はニューヨーク・フィルでした。この映画のために作曲された音楽です。
サイレント時代の伴奏音楽は、たいていはベートーベンやメンデルスゾーンなどの既成曲を、場面の雰囲気にあわせて演奏していましたが、ある特定の映画のためだけに作曲された例も多くあります。1908年に製作された『ギーズ公の暗殺』の音楽は、カミーユ・サン=サーンスが作曲しました。これは世界初の映画音楽として有名です。
さて、本格的なトーキー(おしゃべり)映画の時代は、1927年10月6日、ニューヨークで公開された『ジャズ・シンガー』によって幕を開けます。
この映画、画面に登場したアル・ジョルスンがいきなり客席に向かって話しかけます。本人の声(おしゃべり)が突然聞こえてきたので、お客さんは吃驚して、思わず辺りを探したらしい。そのくらい生々しかったんですね。前の『ドン・ファン』は音楽だけ、今度は本人のお喋りです。衝撃度が違う。
ということで、この映画は記録破りの大ヒット。商業的に成功した世界初の長編トーキー映画として有名になりました。
よく世界初のトーキー映画として紹介されますが、実際は『ジャズ・シンガー』の前にもいろいろあったわけです。また、『ジャズ・シンガー』はほとんどの場面で台詞は字幕。役者の台詞が聞けるのは2場面のみのパート・トーキーでした。映画全編に音が付いているフル・トーキーは、翌年(1928年)に、同じワーナー・ブラザース製作で『ニューヨークの灯火』が作られております。
また、日本でのトーキー第1号は、昭和6年(1931年)の『マダムと女房』(監督・五所平之助)ということになっていますが、先の『黎明』のあと、昭和4年(1929年)に牧野省三の『戻り橋』、昭和5年(1930年)に『ふるさと』(監督・溝口健二)が日活で製作されていたんですね。但しこの2本は字幕併用(パート・トーキー)だっため「本邦初」の冠が戴けませんでした。
『マダムと女房』は、土橋武夫と晴夫の兄弟が開発した純国産の「土橋式トーキー」で、それまでの方式と比べて格段に音質がよく、サブタイトルに「隣の雑音」とありますように、台詞と音楽の他に、チンドン屋や赤ん坊の泣き声などの効果音も入っている、フル・トーキーの映画でした。
田中絹代さん扮する若妻が、夫にいろっぽく語りかける「ねえ、あなた」は、当時の流行語にもなりましたね。
なに、話が長いし、いつまで待っていてもチャップリンが出てこないから、眠たくなってきた? まぁこの人は、正直ですね。
では、続きはまた今度にしましょうね。
サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。