エド・マクベイン 「麻薬密売人」(87分署シリーズ)

麻薬密売人 (87分署シリーズ) エド・マクベイン

ハヤカワ文庫(1956-1978)

麻薬密売人 (87分署シリーズ) エド・マクベイン
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麻薬密売人 (87分署シリーズ) エド・マクベイン
原題「The Pusher」 翻訳:中田耕治

冬はまるで爆弾をかかえたアナーキストのように襲いかかってきた……街はクリスマスに近かった。寒さが骨の髄まで凍らせ、耳もちぎれそうな深夜、パトロール警官のジェネロは、とある地下室から洩れる明かりを発見した――無意識のうちに握りしめたリヴォルヴァーを手に、彼が地下室の寒々とした裸電球の下で見たものは……顔が紫色に変色し、頸に紐をまきつけられた無惨な死体と化している少年の姿だった。しかも少年の傍らには空の注射器が無造作に転がっていた!
麻薬と人種問題に大胆かつ鋭いメスを入れた好評の<87分署シリーズ>問題作!

エド・マクベイン、87分署シリーズの3作目。

冬はまるで爆弾をかかえたアナーキストのように襲いかかってきた。
あらくれた眼つきで、すさまじい叫びをあげ、はげしい息づかいをしながら、全市を冷気でつかみ、骨の髄まで凍らせ、心臓を凍らせた。

この冒頭の一節がたまらなく好きです。
季節に彩られた街全体をまるで生き物のように活写する技は、マクベインの真骨頂で、このような洒落た比喩は、ときに殺人場面や死体描写にも用いられ、非情な効果を生みます。
今回の「麻薬密売人」では、それが特に強く感じられました。

捜査の過程でパクられた少年がアーネスト・ヘミングウェイと同姓同名だったりとか、いつもの軽い笑いもあることはあるのですが、麻薬密売と少女売春をメインの事件として扱っているため、本作はこれまでよりも濃厚に、ダークな雰囲気が漂っています。

初期の87分署シリーズは、署内で働く警察官たち、その集合体が主役で、ストーリーを一人で引っ張ってゆく突出した主人公はいません。読者にダントツ人気なのはスティーヴ・キャレラでしょう。しかし他の面々もそれぞれに活躍の場が与えられており、ひとりひとりの地道な捜査が犯人逮捕へとつながっていったり、いかなかったりするところに面白味があります。
前作「通り魔」では結婚休暇をとって不在だったスティーヴ・キャレラも、新人バート・クリングとコンビを組んで復帰。温厚なマイヤー・マイヤーや、鉄腕訊問を得意とするロジャー・ハヴィランドも健在。
しかし今回スポットライトが当てられているのは、刑事部屋の指揮官、ピート・バーンズ主任です。
匿名の密告者から、ピートを名指しした電話があり、そいつの言うことにゃ、なんと彼の息子(高校生)は密売人殺しの犯人だって。

殺人現場に残されていた注射器には、確かに息子の指紋がくっきりと……これは何かの冗談か、それとも息子は誰かの罠にはめられたのか。
その真偽を確かめるため、夜遅く帰宅した息子を問いつめたところ……ああ、なんということか、仕事熱心なあまり家庭を放ったらかしにしていた間に、息子は立派なジャンキィ<ヘロイン中毒者>になっていた! 現役バリバリの、しかも管理職に就いている警官の息子が<らりこう>だなんて。いったいどうしたらいいのだ。
さらにヤバいことに殺人容疑までかけられている。いや、本当に犯人かも知れない。禁断症状で暴れる息子の姿をみていると、それが真実だと思えてくる。
いや待て、息子はそこまでワルじゃない。殺人なんてできる度胸もない。
違う違う、それは身びいきというものだ。冷静になれ。長い警察勤務の間にどれだけ同じような声を聞いてきたのだ。「うちの息子(娘)に限ってそんなことをするはずはない」。父であれ母であれ、非行少年の親たちはみんな口を揃えて言っていたではないか。
ああ、どうしよう。

今回再読して驚いたのは、この小説が50年も昔に書かれていたという事実。
まったく風化していない、現代のストーリーといってもおかしくない。麻薬密売の利権争い、その中心となっている十代の若者たち、最後に逮捕される犯人の、冷たく醒めた人格描写。
まるで重松清がルポルタージュしたようなアクチュアリティであります。

さて、これは書こうか書くまいか、ちょっと迷ったのですが……
ここ、かなり重要なポイントです。これより先の、シリーズ全体の流れを左右する大事件なので、あえて書いておきます。
なにしろ50年も前に発表された小説です。邦訳されてからも40年が経っている。殺人犯だって時効になります。評判のシリーズなのに、今まで未読だったあなたが悪いんです。だからネタバレとか文句言わないでください。けっこう有名な話です。

本作で、87分署の名物刑事スティーヴ・キャレラは死にます。
囮捜査の際、チンピラ密売人から胸に3発の銃弾を受け、病院に運ばれますが治療の甲斐なく死んでしまいます。

「(87分署シリーズは)分署それ自体が主役ですから、分署内の誰が必要で、不可欠だ、ということはあり得ない。現実に、刑事は撃たれることも、殺されることもある。そんなわけで、「麻薬密売人」では、キャレラは撃たれ、クリスマスの日に、死んだのです」(1978年出版「The Great Detectives」 エド・マクベインのエッセイより)

そう、オリジナルの原稿では、キャレラは死んでいたのです。
ところがこれを読んだ編集者のハーブ・アレキサンダーは、シリーズのスターを殺すことに猛反対。即座に電話をかけ、殺す殺さないの押し問答の末にマクベインが折れ、キャレラは瀕死の状況から見事復活。以後、シリーズ最終作まで、退職も許されず、50年の長きにわたって87分署に勤務することになります。
それでもしばらくは「一個人でなく、分署それ自体が主人公だ」と主張していたマクベインでしたが、シリーズの最後の方(90年代以降)は、「87分署シリーズ」というより、「キャレラ刑事の事件簿」って感じになってしまいました。
ここで殺しておいたほうがもっとバラエティに富んだアイディアが投入されて、奥行きと幅のあるシリーズに成長していたのではないのか、それとも殺さなかったからこそ50年の長期シリーズとなり得たのか。

時は今、神の御子の生れ給いしクリスマス、夜はなべてこともなし。
テディ(おしでつんぼのキャレラの奥さん)の悲しむ顔を見たくなかった俺は、「殺さないで良かった」に1票です。

余談ですが、この「麻薬密売人」の邦訳初出は、「中学三年コース」1966年8月号付録(但し抄訳−題名「麻薬とハト」)だったそうです。こんなダークネスな犯罪小説を受験雑誌の付録に付けるとは、いやはや昭和のほうが21世紀のいまよりずいぶん進歩的だったというか何というか。こりゃ昔の少年が早く大人に成長するわけだ。

エド・マクベイン Ed McBain (1926−2005年)
高校卒業後海軍に入り、第二次大戦後に除隊して大学入学。その後教師など幾つかの職業を経て出版代理店に勤務。
1954年、かつての教師経験をもとに高校生の非行を描いた『暴力教室』(エヴァン・ハンター名義)が評判となり映画化。1956年より、架空の街アイソラに勤務する警官たちの活躍を描いた「87分署シリーズ」をスタートさせ、警察小説と呼ばれるジャンルを確立。その他、ホープ弁護士シリーズなど著書多数。
1986年にアメリカ探偵作家クラブ(MWA)巨匠賞、1998年にはイギリス推理作家協会(CWA)ダイヤモンド・ダガー賞を受賞。

詳しくはこちら > エド・マクベイン読本(87分署ファン必携!)

soe006 エド・マクベイン 関連ページ
エド・マクベイン 「麻薬密売人」(87分署シリーズ)(2005年09月20日)
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