一杯の麦茶

この日記のようなものは、すべてフィクションです。
登場する人物、団体、裏の組織等はすべて架空のものです。ご了承ください。

一杯の麦茶

July 19, 2005

人は、年齢を重ねるたびに、経験を積み、知識を修得する。
以前痛い目にあった事柄には、なるべく近づかないよう注意を払い、どうしても避けられぬ場合は、被害が最小で済むよう準備したり覚悟を決めたりもする。
これが、年相応の分別というものだ。
四十を過ぎて、綱渡りを真似てガードレールの上を歩き、足を滑らせ股間を強打し、股関節と大腿骨にヒビを入れ、臀部を裂傷、5針縫うようなバカモノには、縁のない人生の奥義といえよう。

バカモノはバカモノなりに記憶をたどる。

あれは小学二年生の、初夏に近い晩春の或る日の午後。
学校から帰ったあと宿題もせず脇目もふらず、さりとて小遣い銭もおねだりせず、背負ったランドセル、オイヤッと玄関に放り込むや否や一目散に踵を返し、洟垂れ小僧どもが集う近所の寺へと馳せ参じ候。
逃げる、隠れる、探し出す、隙あらば鬼の視界に入らぬようこっそりと背後より接近し、長さ約30センチの棒ッ切れによってマークされたサークル中央に鎮座しますところの空缶を蹴る。極めてシンプルなルールながら、愉快痛快にして爽快なる、いわゆる「缶蹴り」に興じ候。
隠れる場所には事欠かない墓場ゆえ、鬼にとっては油断ならぬ危険地帯<デンジャラス・ゾーン>。
それはまた、硬にして剛であり重でもある墓石を、両の腕(かいな)にしっかと抱いた少年にとっても同じこと。
この少年、器用なことに仰向けの格好で、なおかつ己の躯を墓石の下に挟み込み、青白き顔色で鯉の如く口をパクつかせている。
一般的な想像力を働かせれば、鬼の現在位置を探るため墓石によじ登りしところ、目的を果たす以前に重心のバランスを欠き、墓石は傾き倒壊し、哀れなる少年にのし掛かり、胸部を圧迫し今に至るのではないかと、推測することもできよう。また一見したところ分からないが、少年は倒れたおりに後頭部を強打しており、意識あれど正常である保証なし。よって本人は、いったい何が起こったのかも自覚できぬまま、顔面より血の気が引き次第に感覚が失われつつある顎の筋肉を必死に動かせども声は音波に変換ならず、さりとて自力で墓石を排除できるほどの体力(パワー)、気力(フォース)、根性(ガッツ)、超能力(サイコキネシス)も持ち合わせていなかった。
ひたすら鬼が発見通報してくれることを、口をパクつかせながら待つこと暫し。そのとき少年の頭のなかには、四十を過ぎた己の姿はもちろんのこと、明日の自分、今晩の食卓にいる自分さえ思い浮かぶ由もなし。

後日、母親同伴菓子折持参で寺の住職に頭をさげ、もう二度とこのような惨めで馬鹿馬鹿しいトラブルは起こさないと心に誓うが、なぁに子供のこと故、反省は当座しのぎの行き当たりばったり。
その証拠に、同寺への母親同伴菓子折持参は、その後も数回繰り返された。

不思議なことがある。
幾度か繰り返された母親同伴菓子折持参は、いつも夏の出来事だった。お寺の奥さんが、麦茶を出してくれたのを覚えている。
境内の庭で、蝉も鳴いていた。
薄くて少し緑色した綺麗なガラスのコップに、冷蔵庫の製氷皿でつくった(中央に白い気泡が混じった)角氷が浮いている。冷たくて香ばしく、うちで飲んでいる麦茶よりも高級で、値段も高く上品な感じがした。
飲み干したあと氷をガリガリ囓っていたら、奥さんに「もう一杯あげましょうか?」と、訊かれた。詫びに来て麦茶をお代わりするのは厚かましいと思ったので、頭を左右に振って、小さい声で「イイエ」と呟いた。
母親同伴菓子折持参の折、他の飲み物が出されたという記憶はない。

そういえば、4歳のとき、近所のおともだちを乳母車(今風に呼べばベビー・カー)に乗せて暴走し、道交法を無視したあげく乳母車もろとも堀に突っ込んだのも夏だったし、バイクで事故って入院したのも、1979年の7月だった。

バカモノはバカモノなりに反省する。

いまはもう乳母車を押して遊んだり、墓地で缶蹴りしたり、していない。あの事故以来、バイクにも乗っていない(怖くてもう運転できないだろう)。
それもこれも、歳を重ね知識と経験を積んだおかげである。
ひとつひとつの経験が、明日の人生に活かされている証拠である。
来年以降は、たぶん、ガードレールの上を歩くこともあるまい。
歳をとるということは、つまり、そういうことなのだ。

また新しい夏を迎える。一杯の麦茶を飲む。
そしてまた一つ年齢を加える。
それにしても、あのお寺でいただいた麦茶は美味かった。
あんなに美味しい麦茶は、もう二度と飲めないだろうな。

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