日本語の乱れを嘆く
March 3, 2006
とはいえ、いつもテンプレどおりに事が運ぶわけはないわけで……
昨夜は、菜の花の芥子酢味噌あえが夕食の膳に出まして、なんとも風流でございました。
食事に関しては、出るもの拒まず、であります。
何処でも何でも、美味しくいただく主義。
ところが、これ、日本国内においてのみ有効でありまして、海外となるとチト心配。
特に中国圏の食事には不安をおぼえます。
近年は野菜などの生鮮食料品も中国から輸入されていますし、毎日のように口にしている豆腐、納豆、油揚げなどは、(おそらく)90パーセントくらいを中国からの輸入大豆を原料としているかと思われます。
(大豆の国内自給率は5パーセントだってさ)
大豆に限らず、とにかく、現在の日本の食糧自給率はかなり低い。
ホテルなどで出される朝食。よく「和食と洋食のセットがございますが?」などと訊かれるが、原材料はどちらも輸入品ばかり。かろうじてお米だけが国産という有り様。
すべて国産で、となると、漫画「美味しんぼ」に出てくるような高級料亭でなきゃ不可能かと存じます。
当然、それら輸入食料を食して日々を生きている俺様の肉体は、ほぼ無国籍細胞の塊(かたまり)なわけで……国籍と遺伝子のみによって辛うじて日本人を維持しているのが実情であります。
話は唐突に変わりますが……
ちょいと前に、日本語の乱れを嘆くブームがありました。
カタカナ語の氾濫、現れては消えてゆく粗製濫造の流行語。こういったものが保守的な方々の反感を買い、もっと正しい日本語を使おう、美しい日本語で話そう、という意識を高めたようです。
でもね、そんなこと無理に決まってますよ。
だって日本語(に限らずどんな国の言葉であっても)、これはこうでなきゃダメだって決まりはないんだもの。昭和15年くらいから昭和20年8月くらいまでの一時期、英語は敵性語とされて国家権力により排除されていましたけど、そんな非常時にだって漢語(中国語)は普通に使っていたわけですし。純粋な日本語(やまとことば)だけでものを書いたり喋ったりするのは、無理に決まってますよ。
そもそも、どれが日本古来の言葉で、どれが外来語かなんて、大学で言語学を研究されている偉い先生にしか区別できないんじゃないでしょうか。
まあ、言葉が持つ潜在的な機能を重視する、ってのは賛成なんですけどね。
例えば「ライス」。これなんかは日本語だと、「稲」「米」「籾」「玄米」「白米」「飯」「御飯」と、その用途によっていろいろ使い分けられて便利このうえない。
英語の「rice」じゃ炊いてあるのか生の米なのか、田圃に実っているものなのか精米されたものなのか、ピンとこない。
レストランで、「パンになさいますか、ライスにされますか?」なんて訊かれると、「白い御飯をください」と返事しなきゃならない。「ライス」だとなにを出されるか分かりませんからね。まさか稲穂を皿に載せて出したりはしないだろうけど……「白い御飯」と答えたら、お茶碗にお箸をつけて持ってくるお店があったら嬉しいな。
(フォークでお皿に盛られた御飯は食べにくいもの)
ところが一方では、「牛」という言葉もあります。
日本語では牛は牛であって、牛以外のなにものでもない、でかくて角が生えててモーと啼く、加熱して食するとたいへん旨い四足歩行の食用家畜なのでありますが……これ、英語だと「cow」と「bull」で雌雄の区別をつけたり、労役用の去勢雄牛だったら「ox」、子牛だったら「calf」、その複数形で「calves」、食卓に出される肉片は「beef」とか、呼び名で実体が直接的に把握できて、これまた便利なんですね。
言葉が持つ潜在的な機能を重視する……これを推進するのであれば、双方の良いとこ取りが一番なわけで……つまり、日本語のほうが便利なものは日本語で、外国語のほうが便利なものは外国語で、というのが常識的かつ実務的なのではなかろうか、と思うのです。
さて、日本語の乱れを嘆くブームのもうひとつの側面として、日本語を伝統尊重の手段または道具として扱う思想があります。言葉遣いで男女の違いを、敬語(および謙譲語)で上下関係の違いを、丁寧語で気持ちを顕す。これまた個人的には大賛成なのでありますが……
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