日本映画について 其の誤
May 6, 2004
昭和35年。
日本映画の最盛期には、全国に7457館の映画館があった。
数字だけではピンとこない人の為に付け加えると、現在のローソンの店舗数が7821である。
もちろん都市部・繁華街に集中しているが、人口1万人以下の田舎町でも、たいてい1つか2つの映画館はあった。(若い方は60歳以上の人に訊いてください)
これが、昭和40年代にはテレビの普及と警察の暴力団解体で3000以下に減り、ビデオが普及した平成2年には、1836館にまで減少してしまった。
現在は、海外資本のシネコン登場と、旧映画館のスクラップ・アンド・ビルド=建て替えが進み、スクリーン数は2681スクリーン(2004年度)。……若干増加の傾向にある。
「一つの宿場に親分一人ならまだいいが、親分二人となると、もういけねえ」
映画館で上映している映画は、原則的に1本(1番組)毎の契約によっている。
大勢の人で賑わう大都会だったら、劇場毎に観客の棲み分けもできる。
みゆき座は女性客が多いから恋愛映画を、日比谷映画は男性客が多いからアクション映画を……それが劇場イメージとなって浸透し、固定客の確保へとつながる。しかし1〜3館しかない田舎町では、そんな悠長なことは言ってられない。
棲み分けできるほどの観客が地域にいないからだ。
常時、老若男女にウケそうな映画を選択しなければならない。
ヒットしそうな映画は、どこの映画館だって自分の小屋(映画館)に掛けたい。
そこで、映画の争奪戦が始まる。
最初に書いたように、最盛時、映画館を経営していたのは「興行師=香具師の元締め」だった。
この種の人たちが重んじるのは、「仁義」である。
これがなければ、ただの暴力集団に成り下がり、事ある毎に血の雨が降る。ポスターを貼る銭湯や、街頭の立看板にだって、ちゃんと縄張りがあった。
「『宮本武蔵』の時は俺が唾を呑んだ。だから今度の『明治天皇と日露戦争』はウチの小屋で掛けさせてくれ」
「おう、分かった。じゃぁウチは『大当たり三色娘』を掛ける」
……というような取り決めが、割とスンナリなされていたのも、「仁義」があったからだ。(このあたりの物語を映画化したいというお金持ちの映画関係者は、ぜひご一報ください)
そんな談合をするくらいだから、興行師は映画に精通していなければならない。
あの監督のテーマはいつもなんとかだとか、今度の映画はキャメラワークがどうのこうのとか、そんな評論家/映画オタクの蘊蓄はど〜でもいい。
ババを引いたら(ハズレを掴まされたら)、小屋に閑古鳥が鳴く。
否が応でも映画を見る目を養っておかねばならない。
なにが当たるか、これを見極める嗅覚が、商売繁盛にダイレクトにつながる。
絶対に大当たり間違いなしと、常時よりもでっかい看板を掲げ、ポスターの枚数を増やし、劇場の外には呼び込みまで立たせて封切った大作がコケたり、逆に、こんなもんが当たるもんか、と思っていた映画が予想以上のヒットになったときは、その要因を分析して次に備えておかねばならない。映画は、当たれば黒字源泉、ハズレりゃ赤字源泉の商売だ。
興行師は、自腹を痛めることなく高みの見物でウンチクを垂れ流しする映画評論家とは違った角度から映画を分析し、良い映画(当たる映画)と悪い映画(コケる映画)を見極める眼力を持っていた。
ウチの近所の映画館は、『アルマゲドン』や『ターミネーター』とか、あとはアニメばっかりで、ベストテンやカンヌで賞を獲ったような映画は上映してくれないんです……
それは、あなたの街に、そのような映画を観るお客が住んでいないからです。
興行師は映画のプロです。そのような映画がお客を呼べるのなら、黙っていても上映します。
さて、興行師同士の談合がいつも上手くいくとは限らない。
「なにアホ抜かしとるんや、『宮本武蔵』ちゅうたら5年も前の話やないかい。あれからウチもろくな写真掛かっとらんのじゃ。今度の『明治天皇と日露戦争』だけは絶対に譲れんのじゃ!」
「なんやとぉ、ワイがこうして頭下げとるんやど。男の顔、ツブすっちゅーんかい!」
「なんやったらお前の小屋、ウチで買うてやってもええで」
「やかましい、おどれシネマ(死ねや)!」
……などと刃傷沙汰にもなりかねない。
ヤクザ同士の諍いなので、新聞には載りませんけど。手下に客を装って入場させ、客席にウ◯コしたり……といった嫌がらせは日常茶飯事だったらしい。
そこで仲裁に入った配給会社が、ブロック・ブッキング方式という妙案を持ってきた……というのは俺の作り話だけど、
このシステムが導入されたお陰で、上記のような無用の諍いはしなくてもよい状況がうまれたのは確かだ。
ブロック・ブッキング方式とは、例えば、東宝が製作配給する映画を、東宝と契約を交わした映画館で、常時独占的に上映する……というシステム。
製作は、作った映画を常に買ってくれる相手がいるので安心して仕事に専念できるし、配給会社も1本(1番組)毎に全国の映画館を駆け回らなくてすむ。興行主は上から流れてくる(契約会社の)映画を自動的に小屋に掛けるだけだから作品選定の手間が省け、その地域での独占上映契約なので、他の興行師とのトラブルも回避できる。
いわば映画流通のオートメーション化だ。
もちろん、各々の分野での責任は果たさなければならない。
製作は、前年度の売り上げを上回るような魅力ある作品を作り続ける義務があるし、配給はそれら製作された作品を、どのような方針でどの位の予算を掛けて宣伝するか、いつ封切ってどれ位の期間上映するのかなど、最も効果的な編成を考えなければならない。
そして興行(映画館)は……することがなくなった。
いや、表に掲げる看板作りや、街頭の立て看板、ポスター貼り、地元新聞の映画欄に広告を出したりする仕事は従来通りだが、興行の醍醐味であったはずの作品選定が無くなったので、頭を使う仕事はしなくてすむようになった。以前は映画館が独自に作っていたプログラムやチラシも、配給会社が宣材として持ってきてくれる。
「◯◯東宝」とか「◯◯東映」と名乗っている映画館のすべてが、東宝や東映の直営ではない。映画会社とブロック契約を結んでいるだけで、実体は従業員数名〜夫婦二人だけ(正月や夏休み期間中はアルバイトを雇う)の零細企業だったりもする。
上映作品も上映期間も配給会社任せなので、先に書いた、良い映画(当たる映画)と悪い映画(コケる映画)を見極める眼力など、いらなくなった。
単に建物と映写設備を、配給会社に貸しているようなものだ。
昭和40年前後に消えていった映画館は(もちろん大映倒産と同時に、大映とブロック・ブッキング契約していた映画館のほとんどは閉館したけど)……実は、ブロック・ブッキングの契約をしていない、独自のプログラムを組んでいた映画館が多かった。
ブロック・ブッキングに加わらなかった映画館には、2種類ある。
一つめは、これは田舎(人口の少ない街)に1館だけあった映画館に多いのだが、作品争奪の諍いもなく、1社のお仕着せプログラムを上映するよりも、各社の当たりそうな映画だけを選んで上映したほうが得だと判断した映画館。しかし、このような映画館を経営していたのは、街の興行を一手に牛耳っていた「香具師の元締め」が多かった。
二つめ。独自にプログラムを組んで、観客のニーズに柔軟に応えようとした映画館(二番館や名画座など)。これも1980年代、レンタル・ビデオに圧されて、ほとんど消えてしまった。
残ったのは……単に建物と映写設備を配給会社に貸しているようなだけの、ブロック・ブッキング契約をしていた映画館。
なぜ?
テレビやビデオの影響だって、消えていった映画館と条件は同じでしょ?
配給会社とは作品(番組)単位の契約で、子会社になったってことじゃないでしょ?
更に先日からの課題も残っている……
大量前売りシステムやビデオ販促のデモ上映のとき、客席はガラガラ。
それでも映画館は上映している。
何故だ?
もはや引き延ばしも、これが限界
次回は必ず回答いたしますので、今日のところはこれまで。