アントニン・ドヴォルザーク
Antonin Dvorak(1841-1904)
後期ロマン派に位置し、ボヘミア(チェコ)の国民楽派の作曲家として知られるアントニン・ドヴォルザークは、1841年9月8日生まれ。
ドヴォルザークの生家は肉屋と宿屋を経営し、父親はツィター弾きの名人でもあった。音楽好きなアントニンは8歳で聖歌隊に加わるが、父親は小学校を中退させ、肉屋修行のため30kmほど離れたズロニツェという町の職業専門学校に転校させる。
ところがこの専門学校の校長はたいへんな音楽好きで、アントニンに、ヴァイオリン、ヴィオラ、オルガンの演奏や、和声学をはじめとする音楽理論の基礎も教えた。
1862年にチェコ国民劇場の建設が計画され、ドヴォルザークは仮設劇場のためのオーケストラにヴィオラ奏者として参加。
このオーケストラの指揮者に任命されたのがベドルジハ・スメタナで、ドヴォルザークはチェコ国民楽派の先輩から直接教えを受けることができた。
19世紀の終わりごろ、それまで音楽史の主流ではなかった東ヨーロッパや北ヨーロッパあるいはロシアなどの諸国より、民族的な主張を音楽で表現しようという行動を起こした人々がいた。これが国民楽派と呼ばれる作曲家たち。
ロシアのチャイコフスキー(ドヴォルザークより1歳年上)、ノルウェーのグリーグ(2歳年下)など。
ボヘミア(チェコ)のベドルジハ・スメタナ(1824年生まれ)が、交響詩やオペラなど標題音楽によって国民性を直接的に表現したのに対し、ドヴォルザークはメロディやリズムに民族的な色合いを加えた交響曲や弦楽四重奏曲などの伝統的なジャンルを中心に創作活動し、国民的であると同時に古典の構造を持つ、より普遍性の強い堅牢な作品を発表した。
1871年、作曲家を志すドヴォルザークは楽団を辞して、個人レッスンで生計を立てながら作曲に専念。
このころのドヴォルザークはワーグナーに心酔し、ワーグナーのオペラが上演されている劇場に足繁く通っていた。若書きのオペラのなかには、明らかにワーグナー作品から拝借したと分かる旋律も散見されるという。
ところが皮肉なことに、駆け出しドヴォルザークの才能を認め世間に紹介したのは、当時ワーグナーと対立状態にあったブラームスだった。
1877年、ドヴォルザークはオーストリア政府の国家奨学金の審査に、全22曲からなる「モラヴィア二重唱曲集」を提出。このときの審査員がヨハネス・ブラームスで、彼はドヴォルザークに出版社を紹介し、自分が世に出るきっかけとなった「ハンガリー舞曲集」のような民族音楽を集めた連弾ピアノ用の曲集を出すようにアドバイス。ドヴォルザークは素直にそれに従い、二番煎じ企画の「スラブ舞曲集」を出版。そして思惑どおり大ヒット。
出版社の要請で「スラブ舞曲集」の管弦楽版も書きあげ、ロンドン・フィルハーモニック協会より依頼された「交響曲第7番 ニ短調」も好評で、ロンドン公演は大成功、聴衆のあたたかい拍手に包まれた。
1888年にはチャイコフスキーがプラハを訪れ、1890年にはその招きでモスクワとサンクトペテルブルクを訪問。
1890年にチェコ科学芸術アカデミーの会員に推挙され、1891年プラハ大学より名誉博士号、ケンブリッジ大学から名誉音楽博士号を授与されている。
ブラームスがウィーン移住を薦めたがこれを断り、ヴィソカーというチェコの農村に別荘を建てたドヴォルザークに、ニューヨークから音楽院院長職への就任依頼が届く。
田舎暮らしが性に合っているドヴォルザークは、当然これを断ったが、最終的にアメリカ行きの船に乗り込む。
年棒 15,000ドル(プラハ音楽院から貰っていた金額の約25倍)に目が眩んだのである。
ニューヨーク国民音楽院の理事長ジャネット・サーバーは、世界に誇れるアメリカ独自の音楽を育てて欲しいという願いから、国民音楽派のドヴォルザークに期待していたのだが、これは失敗に終わった。
不況で資金繰りが苦しくなり、音楽院の経営が行き詰まってしまったのだ。
赴任してしばらくはシカゴ特急の車両番号をメモするなどして気を紛らわしていたドヴォルザークだったが、ホームシックは日増しに酷くなり、給料の支払いも滞り、友人だったチャイコフスキーもハンス・フォン・ビューローも次々と死んでゆく。54歳のドヴォルザークは、異国の地でどうしようもない寂寞感に堪えきれなくなった。
1895年4月、アメリカでの2年半の生活に終止符を打って帰国。
ドヴォルザークは、渡米中に「交響曲第9番 ホ短調」と「弦楽四重奏曲第12番 ヘ長調」、帰国直後に「チェロ協奏曲 ロ短調」を作曲。
これら3曲はアメリカ生活で得た楽想が組み込まれ、それぞれの分野でドヴォルザークの最高傑作として人気を得ている。
「チェロ協奏曲 ロ短調」の初演を聴いたブラームスは、「このような協奏曲が人間の手で書けると知っていたなら、私が先に書いていたのに」といって嫉妬したらしい。
チェコに戻ったドヴォルザークは、ブラームスからウィーン音楽院教授就任の要請を受けるが、これを断り、オペラの作曲に専念する。
ドヴォルザークは生涯 11作のオペラを作曲しており、晩年の作品は好評を得ていたが、テキストがチェコ語であるため、現在上演の機会は極めて少ない。
1901年オーストリア貴族院はドヴォルザークを終身議員に任命。
同年7月、プラハ音楽院の院長に就任。
1904年5月1日、脳出血により死去。
葬儀は国葬で行われ、棺はプラハの聖サルヴァトール教会にいったん安置された後、ヴィシェフラド墓地に埋葬された。
これだけは聴いておきたいドヴォルザークの代表作
「交響曲第7番 ニ短調」「交響曲第8番 ト長調」「交響曲第9番 ホ短調 新世界より」「弦楽セレナード ホ長調」「ヴァイオリン協奏曲 イ短調」「チェロ協奏曲 ロ短調」「弦楽四重奏曲第12番 ヘ長調 アメリカ」