フランツ・リスト
Franz Liszt(1811-1886)
1811年10月22日、ハンガリーのエステルハージ侯領ライディングに生まれる。両親はドイツ系で、ハンガリー語の読み書きも出来なかったが、リスト自身は生地のハンガリーを祖国とし、死ぬまで強い愛国心をもっていた。
1822年にウィーンに移住。最初のピアノ教師は、あのピアノ教則本で有名なカール・チェルニーで、アントニオ・サリエリについて和声と作曲も学んだ。1823年、リストはパリ音楽院のピアノ科に入学を願ったが、当時のパリ音楽院は異国人の入学を許可していなかった。
1823年4月13日、ウィーンで演奏会を開催。12歳のリストに、「この小僧はまったく素晴らしい奴だ」と言って接吻したのは、52歳のベートーヴェンだった。1827年に父親が死去し、15歳のリストはピアノ教師として一家の家計を支えることになった。リストはパガニーニの演奏を聴いて感激し、彼の超絶技巧に負けない、「ピアノ界のパガニーニ」になるべく研鑽を積み、ついに指が6本あるのではないかと噂されるほどのヴィルトゥオーゾに成長した。どんな難曲であろうと初見で軽々と弾きこなし、ピアノの魔術師と渾名される。聴衆はリストに夢中になり、演奏会場はいつも満員御礼、たちまち社交界の花形スターに祭り上げられてしまった。女性の聴衆に抜群の人気があり、ステージで汗拭きに使ったハンカチを奪い合い、それを手にしたご婦人が失神してしまった、という伝説も残っている。しばらくはパリを中心に演奏していたが、たびたびイギリスに渡り、国王ジョージ四世とも親交を深める。たちまちのうちにリストの名声はヨーロッパ全土に拡がっていった。
色恋沙汰にまつわるエピソードは数多く、マリー・ダグー伯爵夫人やザイン=ヴィトゲンシュタイン公爵夫人カロリーネとのロマンスも興味深いが、ここでは割愛。ダグー伯爵夫人との不倫愛によって、後にワーグナーの妻となるコージマが生まれている。
リストは音楽仲間たちに面倒見のよい男で、無名だったショパンのピアノ曲を演奏会で積極的にとりあげ、世間にショパンの名を周知させるのに一役買っている。浮沈の激しかったワーグナーの相談相手になり、金に困っている楽士にも援助を惜しまなかった。リストは情け深い人格者であり、1838年にドナウ川が氾濫するとチャリティー・コンサートを行い、多額の救援金を寄付している。
1847年、ワイマールの宮廷楽長に就任すると、リストはピアノ演奏の活動を減らし、作曲と指揮に仕事の内容をシフトさせた。古典スタイルにとらわれない自由な形式で詩や文学を管弦楽によって描写する「交響詩」の創始者はリストである。またベートーヴェンの交響曲(全9曲)やベルリオーズの「幻想交響曲」などをピアノ独奏用に編曲したりもしている。1859年に宮廷楽長を辞任すると、1861年にローマに移住し、アッシジのフランシスに帰依、敬虔な信仰心により僧位を得ている。
1886年7月31日、友人で娘婿でもあるワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」を観るためバイロイトを訪れていたリストは、慢性気道閉塞と心筋梗塞を併発して死去。享年74歳。