ドミートリイ・ショスタコーヴィチ
Dmitry Shostakovich(1906-1975)
ドミートリイ・ショスタコーヴィチは、1906年9月25日、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルク生まれ。
1919年、レニングラードのサンクトペテルブルク音楽院に入学。ピアノと作曲を学ぶ。作曲家修了作品として書いた「交響曲第1番」が、ストコフスキー、ブルーノ・ワルター、トスカニーニなど当時のマエストロによって演奏されたことから、一躍世界中から注目される作曲家となった。
若いころのショスタコーヴィチは最新の音楽表現に敏感で、アルバン・ベルクやダリウス・ミヨーなど西欧の革新的な音楽技法を吸収。アンコール曲として演奏されることも多い「タヒチ・トロット 作品16」は、ヴィンセント・ユーマンスの流行歌「二人でお茶を Tea for Two」のオーケストラ編曲版。「ピアノ協奏曲第1番」(1933年初演)ではジャズの技法も取り入れている。
1936年、歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」とバレエ「明るい小川」が、ソヴィエト共産党機関誌「プラウダ」によって批判された。ソヴィエト共産党は、社会主義革命が勝利に向かって躍進する様子を人民に啓蒙する「社会主義リアリズム」の作品だけを認可・奨励。これに反するような芸術・文化は激しく弾圧。当局の意向に反した作品を発表した者は反逆者とみなし、容赦なく処刑していた。
ショスタコーヴィチは、スターリンの独裁恐怖政治のもと、生命を危険にさらしながら「交響曲第5番」「ピアノ五重奏曲」「交響曲第7番 レニングラード」などの代表作を発表。スターリンの植林事業を讃えたオラトリオ「森の歌」(1950年)はスターリン賞を受賞。プロバガンダ映画にも多くの映画音楽を提供している。
1961年9月、ソヴィエト共産党に入党。レニングラード音楽院大学院での教育活動に復帰。ソヴィエト連邦最高会議代議員、チャイコフスキー国際コンクールの組織委員会委員長に任命される。
1975年8月9日、肺ガンによりモスクワの病院にて逝去。ノヴォジェヴィチ墓地に埋葬された。
死後に出版されたソロモン・ヴォルコフ編「ショスタコーヴィチの証言」(水野忠夫:訳/中央公論社/1980年)によると、ショスタコーヴィチの創作活動は、イデオロギー統制下でソ連当局を告発し、反体制運動を支持する意図を隠すものであったとされている。
ソヴィエト連邦革命20周年記念式典で初演され、当局からの信用を回復した「交響曲第5番」第4楽章も、「強制された歓喜」を表現したものと「証言」されている。
それまで「ソ連の御用文化人」と認識されていたショスタコーヴィチのイメージが、表裏逆転するセンセーショナルな内容だったのだが……その「証言」内容は信憑性に欠け、現在ではヴォルコフの創作・偽書であるとの意見が多い。
これだけは聴いておきたいショスタコーヴィチの代表作
「交響曲第5番 ニ短調」「弦楽四重奏曲第8番 ハ短調」「ピアノ五重奏曲 ト短調」