イーゴリ・ストラヴィンスキー
Igor Stravinsky(1882-1971)
生年の出来事……ローベルト・コッホが結核菌を発見/東京専門学校(現:早稲田大学) 開校(明治15年)
没年の出来事……ドル・ショック/日清食品がカップヌードルを発売(昭和46年)
イーゴリ・フョドロヴィチ・ストラヴィンスキーは、1882年6月17日、ペテルブルグ(レニングラード)郊外のオラニエンバウムに生まれた。
父親は宮廷オペラ歌手だったが、ペテルブルグ大学法学部に入学。在学中にリムスキー=コルサコフと知り合い、彼から作曲法と管弦楽法を学び、作曲家への道を志す。
1908年、リムスキー=コルサコフの娘の結婚祝いに書いた「花火」が初演され、ロシア・バレエ団の主宰者セルゲイ・ディアギレフより、バレエ音楽の作曲を依頼される。
1910年、ロシア・バレエ団のための第1作「火の鳥」をパリのオペラ座で初演。続いて上演された「ペトルーシュカ」、「春の祭典」によって世界的な名声を獲得。特に1913年の「春の祭典」公演は、警官隊まで出動するほどの騒動となり、楽壇にセンセーショナルな波紋を投じた。
1914年、第一次世界大戦勃発でスイスに移住。1917年のロシア十月革命で、故国の土地は革命政府に没収された。
このころから作風が一変し、劇音楽「兵士の物語」、バレエ音楽「プルチネルラ」など、小編成の作品を発表。ロマン主義的な主観性や感情を排した、新古典主義に傾倒してゆく。
1939年、ハーバード大学の招きを受けてアメリカに移住。1951年、シェーンベルクが死去すると、それまで否定的だった十二音技法を採用し、数多くの宗教音楽を作曲。晩年はベートーヴェン後期の弦楽四重奏曲を愛していたという。
1971年4月6日、ニューヨークにて死去。享年89歳。
遺体は、恩師ディアギレフが眠るヴェネチアのサン・ミケーレ島に埋葬された。