セルゲイ・プロコフィエフ
Sergei Sergeevich Prokofiev(1891-1953)
生年の出来事……露仏協商締結/第1次松方内閣発足(明治24年)
没年の出来事……朝鮮戦争の休戦成立/NHKが日本で初のテレビジョン本放送(昭和28年)
セルゲイ・プロコフィエフは、1891年4月23日、ロシア帝国領ドネーツィク州(現在はウクライナ)に生まれました。父親は貴族の農場の管理人で、ピアノ奏者だった母親より幼いころから音楽教育を受け、5歳にしてピアノ小品を作曲するほどの早熟ぶりを発揮。1904年にペテルブルグ音楽院に入学。1914年の卒業試験では、バッハのフーガと自作のピアノ協奏曲第1番を弾き、ルビンシテイン賞を獲得します。
ロシア・バレエ団のディアギレフに才能を認められ、作曲家兼ピアニストとして国内各地を演奏旅行していましたが、ロシア革命が勃発。ウラジオストックから日本を経て、アメリカへ移ります。4年間滞在したアメリカではオペラ「三つのオレンジへの恋」などを作曲し、ピアノ演奏の活動もありましたが、最先端をゆくプロコフィエフの作品は正当に評価されませんでした。
1923年、スペイン人の歌手リーナと結婚してパリに転居。パリを拠点とした生活は12年続き、二人の子供も生まれ、その間に彼の音楽活動も好意的に受け入れられるようになりました。
約9年ぶりに故郷を訪れたプロコフィエフは、新生ソビエト聴衆に熱狂で迎えられ、1936年にはパリを引き払い、モスクワに住まいを移します。1930年代のソビエトは、芸術活動が最も自由活発で実りの多かった時代でしたが、やがて政府の意に添わない芸術を「形式主義」として批判する恐怖政治が始まります。プロコフィエフの外国人妻は、好ましからざる人物とみなされ、1940年に離婚、さらにスパイ容疑で逮捕され強制収容所に送られてしまいます。芸術家への締め付けは強まり、ソビエト政府はミラ・メンデリソンという女性を、彼の後妻という名目で監視役につけます。
1941年の春にプロコフィエフは最初の心臓発作をおこしますが、第二次世界大戦で対独戦線に従軍。交響曲第5番、オペラ「戦争と平和」、戦争ソナタなどを作曲しました。ドイツの降伏で終戦となったあともスターリンの独裁はますますエスカレートし、プロコフィエフ作品の多くが共産党中央委員会により上演禁止処分となります。
1953年3月5日、脳出血による呼吸困難に陥り死去(同年同月同日、ほんの数時間の違いでスターリンも死去しています)。プロコフィエフの死は公表されず、葬儀に参列したのはカバレフスキー(葬儀委員長)、ハチャトゥリアン、ショスタコーヴィッチなどわずか10名。彼が作曲したソナタをダヴィッド・オイストラフが演奏し、静かに追悼したそうです。