ジャン・シベリウス
Jean Sibelius(1865-1957)
生年の出来事……米国大統領リンカーン暗殺/土佐勤王党の武市半平太 処刑(慶応元年)
没年の出来事……ソ連の人工衛星スプートニク1号 打ち上げ/百円硬貨発行(昭和32年)
ジャン・シベリウスは、1865年12月8日、フィンランド・ハメーンリンナの医者の家庭に生まれた。
幼少のころからヴァイオリンと作曲に優れた才能を示したが、いったんヘルシンキ大学法学部へ進学。1年後の1885年にヘルシンキ音楽院に入学し作曲などを学ぶ。1889年から91年まで、ベルリンとウィーンに留学。リヒャルト・シュトラウスの「ドン・ファン」初演など影響を受け、1891年に「クッレルヴォ交響曲」を作曲。翌1892年春に初演。
この年にアイノ・ヤルネフェルトと結婚し、合唱交響詩「クレルヴィオ」を発表。これはフィンランドの伝承叙事詩「カレワラ」をテクストにした作品で、以後、この神話を題材とした交響詩(「四つの伝説曲」、「タピオラ」など)を多数作曲している。
シベリウスが世界で注目されるようになったのは、パリの万国博覧会(1900年)にて、交響詩「フィンランディア」が初演(カヤヌスの指揮ヘルシンキ・フィルハーモニーの演奏)されてからだった。
この楽曲は、ロシア皇帝ニコライ2世による圧政(自治権の停止、議会の制限、ロシア語教育の強制、言論弾圧など)に苦しむフィンランド国民から圧倒的な支持を得たが、反ロシア的という理由から演奏禁止になってしまった。
1904年の全国一斉ストライキが功を奏し演奏が解禁されると、シベリウスは国家元首クラスの待遇を与えられ、政府から終身年金を受けるようになった。交響詩「フィンランディア」は、現在でも第二の国歌として、フィンランド国民に愛され続けている。
しかし、シベリウス自身は極端な国粋主義者ではなく、政治的には中立の立場を表明していた。
1904年、ヘルシンキ郊外のヤルヴェンパーに住居を移したシベリウスは、1924年に「交響曲第7番」を発表したあと、他界するまでの約30年間、作曲のペンをおろし、大自然に囲まれたアイノラ荘で沈黙の生活をおくった。
イギリスの音楽評論家セシル・グレイは、「ベートーヴェン以後の音楽界で最大の交響曲作曲家」と絶賛。
フィンランド国民が待望していた「交響曲第8番」は何度も着手されたが、出来に納得できないシベリウスが作曲半ばで焼却してしまった、という噂もある。
1957年9月20日、脳出血により死去。享年91歳。
訃報はただちに全国民に報道され、フィンランド放送はレギュラー番組を中断、代表作「トゥオネラの白鳥」を流して、シベリウスの死を悼んだ。
遺体は首都ヘルシンキの大聖堂に運ばれ、国葬が営まれた後、彼が長年住んでいたアイノラ荘の庭に埋葬された。