スタディ・イン・ブラウン:ブラウン=ローチ・クインテット
January 4 2011
モダンジャズ不朽の名盤25選
名盤25選第4弾は特集連載初の非ラリルレロ、品行方正、才気煥発、健康優良、伝説の名トランペッターの登場。
なぜ伝説かというと、活動期間がきわめて短く、この人の演奏を生で聴いたことのある人がとても少ないうえに、物故してからすでに半世紀、生前の彼と接触のあった人は、ほとんど天に召されている。生存が確認されているのはクインシー・ジョーンズくらいか(2011年1月現在)。
ジャズ=退廃音楽、黒人ミュージシャン=ラリルレロなんて阿呆な誤解をぶっ飛ばす、超名盤の登場。
Study in BrownClifford Brown And Max Roach Quintet 1. Cherokee クリフォード・ブラウン(トランペット) 1955年2月23-25日、ニューヨーク録音 |
モダンジャズを聴きたい?
かっこいいトランペットを聴きたい?
初めてジャズのディスクを買うんですか?
グルーヴィーなリズムに身をまかせたい?
クリフォード・ブラウンの代表作が欲しい?
このアルバムを買いなさい。
ブラウニーとマックス・ローチの双頭コンボってことで、二人だけ突出して語られることの多いブラウン=ローチ・クインテットでありますが、ジョージ・モロウ(ベース)やリッチー・パウエル(ピアノ)だって凄いんですぜ。ローチの変則リズムに合わせ、ブラウニーのソロの邪魔をしないだけでもたいしたもの。
ハロルド・ランド(テナー)も超一流なのに、ブラウニーとローチの天才が輝いているために、霞んでしまい可哀相。
この双頭コンボは、ソニー・スティット、テディ・エドワーズ、ランドとテナー奏者を変え、最終的にはソニー・ロリンズを迎えることになるけれど、やっぱりランドが加わっている録音盤がしっかりまとまっていて好きだなあ。
モダンの基本がしっかりあるうえに、「チェロキー」や「A列車で行こう」みたいなエンタテインメント性も嫌味がなく、正真正銘、これがモダンジャズ。
ブラウニーの故郷デラウェア州ウイルミントンのクラブにディジー・ガレスピーがやって来たのは 1949年。そこでブラウニーは遅刻したトランペッターの代役としてガレスピーのバンドで演奏。これがクリフォード・ブラウンの、実質的なスタートかも知れない。
それから7年後の 1956月6月26日未明。
フィラディルフィアでのジャム・セッションを終えたブラウニーは、ピアニストのリッチー・パウエル(バド・パウエルの弟)と、リッチーの奥さんが運転する自動車でシカゴに移動する途中、ペンシルバニア州ターンパイクの堤防に激突、非業の死を遂げる。享年25歳。
1951年の夏、プロ・ミュージシャンを志して大学を中退したブラウニーは、フィラデルフィアのクラブでチャーリー・パーカーと共演。
「フィラデルフィアに凄い奴がいるぞ」とパーカーを驚かせた。
1952年3月、フィラデルフィアで活動していたR&Bコンボ、ブルー・フレイムズの一員として初めてのレコーディング(CBS盤『ザ・ビギニング・アンド・ザ・エンド』に収録)。
1953年6月9日にルー・ドナルドソン・クインテットでブルーノート・レーベルに、同年同月11日にタッド・ダメロンのコンボでプレステッジに。更に同年同月22日にはJ.J.ジョンソンのコンボでブルーノートにと、矢継ぎ早にセッション・レコーディングに起用される。一気に名声は高まり、同年9月にはライオネル・ハンプトン楽団の一員として、アート・ファーマーやクインシー・ジョーンズとともにヨーロッパ・ツアーに参加。地元ミュージシャンたちとの録音を残し、帰国するなりアート・ブレイキー・クインテット(ジャズ・メッセンジャーズの前身)に迎えられ、1954年2月21日、ニューヨークのバードランドに出演、実況盤『バードランドの夜』(BlueNote)を録音。
1954年3月、ドラマーのマックス・ローチとブラウン=ローチ・クインテットを結成。ハリウッドのクラブ「ティファニー」で旗揚げ公演をおこなう。
この時、余命2年4ヶ月。
以後、ブラウン=ローチ・クインテットがエマーシー(マーキュリーのジャズ専門レーベル)に残したアルバムはすべて名盤であり、すべて聴く価値がある。
ジャズ評論家の油井正一氏が「これぞジャズ・ボーカルの極め付き」と太鼓判を押した『ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン』(1954年12月録音)をはじめとする、ダイナ・ワシントン、サラ・ヴォーンとの共演盤も人気があるし、ブラウン=ローチ・クインテットにニール・ヘフティのストリングス・オーケストラが加わった『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』(1955年1月録音)もブラウニーのメロディアスな魅力が堪能できる。
突然の死によって、ロリンズ参加のブラウン=ローチ・クインテットのアルバムは1枚だけしか残されなかったが、まったく同じメンバーによるロリンズ名義の『ソニー・ロリンズ・プラス・フォア』(1956年3月22日録音)がプレスティッジからリリースされている。ブラウニー・ファンはこちらもお忘れなく。
かつて児山紀芳氏がマーキュリーの保管庫に潜入し、別テイクを含むクリフォード・ブラウンの全録音オリジナルテープを発掘。これをデジタル化して完全網羅したコンプリート10枚組ボックス・セットがリリースされていたが、今でも(中古であっても)入手できるのならこれを買ったほうが手っ取り早い。
ブラウニーに惚れ込むと結局全部欲しくなるし、活動期間が短いからエアチェック音源の海賊盤を入れても60枚くらいにしかならない。
上記ブルー・フレイムズでの初録音から、死の数時間前に行われたジャム・セッションまで。これを多いとみるか少ないとみるか。
録音から半世紀を経てブラウニーが残した録音盤はすべてパブリック・ドメイン(Public Domain:公有音源)になっている。独自にデジタル・リマスタリングしたディスクが、様々なメーカーから安価で簡単に入手可能。しかも枚数が限られているから完全収集も容易。コレクターならずとも容易にコンプリできる。しかも収録されている内容は極上ジャズ!
むかしむかし、おれがジャズのレコードを買い集めはじめた頃、クリフォード・ブラウンのエマーシー国内盤LPは、独自に国内編集されたコンピレーション盤で出ていて、しかも霞がかかったような音質だったですよ。たしか『スタディ・イン・ブラウン』(MG-36037)と『クリフォード・ブラウン・アンド・マックス・ローチ』(MG-36036)から数曲づつ選曲して1枚にまとめたようなやつ。輸入盤が容易に手に入らない田舎では、これしか売ってなかった。
前記、児山紀芳さんが 1983年にオリジナルテープを発見して、デジタル・マスタリングしてくれたおかげで、音質は見違えるようにきれいになりました。別テイクや海賊音源やら、クリフォード・ブラウンが残した音源は、もう完全に出尽くしたとおもいます。
しかもCDは(むかしと比べると)格段に安い。
隔世の感があります。< そりゃそうだよ、今は21世紀だ。
クリフォード・ブラウン Clifford Brown
1930年10月30日、デラウェア州ウイルミントン生まれ。13歳のとき父親よりトランペットを与えられ、ロバート・ローリーに師事。奏法、和声、理論を学ぶ。1943年に地元の高校を卒業。デラウエア大学で数学を専攻するが、音楽奨励金を受けてメリーランド州立大学に転校。そのかたわらフィラデルフィアのジャズ・クラブで演奏。ディジー・ガレスピー、ファッツ・ナバロ、マイルス・デイビス、J.J.ジョンソンらと共演。交通事故で重症を負い、約一年間の入院生活をおくった後、プロ・ミュージシャンへの道を決意し、州立大学を中退。
1951年の夏、フィラデルフィアを訪れたチャーリー・パーカーと一週間にわたって共演。名声を高めると、クリス・パウエルのR&Bバンドに参加。1952年3月25日、シカゴにて同バンドで初レコーディング。
1953年6月にはニューヨークとアトランタを往復し、ルー・ドナルドソン、ダッド・ダメロン、J.J.ジョンソンらの録音セッションに参加。同年9月、ライオネル・ハンプトン楽団のヨーロッパ・ツアーに加わり、巡演先のストックホルムでは地元ミュージシャンと共演。帰国するとアート・ブレイキーのバンドに呼ばれニューヨークのクラブ「バードランド」に出演。
1954年3月、マックス・ローチとの双頭コンボ、ブラウン=ローチ・クインテットを結成。50年代ジャズ・シーンを代表するハードバップの名盤をエマーシー・レーベルに録音。同レーベルが契約するダイナ・ワシントン、ヘレン・メリル、サラ・ヴォーンら女性歌手との共演アルバムもレコーディング。
1956月6月26日。フィラディルフィアでのジャム・セッションを終えたあと、ピアニストのリッチー・パウエル(バド・パウエルの弟)と、リッチーの奥さんが運転する自動車でシカゴに移動する途中、ペンシルバニア州ターンパイクの堤防に激突、非業の死を遂げる。享年25歳。