ラウンド・アバウト・ミッドナイト:マイルス・デイビス・クインテット
January 22 2011
モダンジャズ不朽の名盤25選
季節は冬。
時刻は午後11時を過ぎたころ。
場所は神保町交差点からJR御茶ノ水駅まで続く明大通り。
深夜の坂道を独りで歩いていると、いつもこの音楽が脳裏に流れていた。
マイルスの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」。
あれから20年を経た現在でも、この曲を耳にすると、神保町の純喫茶「響」で戯れていたあのころの仲間たちの顔が、懐かしくよみがえる。
Round About Midnight:Miles Davis QuintetCBS Columbia 01 'Round Midnight マイルス・デイビス(tp) 1955年10月27日(03)、1956年6月5日(04、05、06) |
「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」に特別な思い出があるわけではないけれど、なぜかこの曲は神保町の「響」が重なりあう。
「響」にあったセロニアス・モンクのレコードには、彼が来店したときに残した直筆のサインがあった。
神保町の店をたたんでからも、場所を茅ヶ崎鵠沼海岸に移し、世界一小さなジャズ喫茶を標榜していた「響庵」だったのだが。
それも昨年、ついに……
そんな超個人的な感傷とは関係なく、マイルスのこのアルバムは名盤です。
1955〜56年に録音されたマイルス・クインテットのレコードは、プレステッジの『クッキン』、『リラクシン』、『ワーキン』、『スティーミン』(2日間で24曲すべてワンテイクで録音したマラソン・セッション)も出来が良く、「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」、「イフ・アイ・ワー・ベル」「イット・エンタード・マイ・マインド」、「飾りのついた四輪馬車」と、それぞれアルバムの最初に置かれた歌ものナンバーが絶品。
モダンジャズ期のマイルスが好きなら、この5枚のアルバムは必携。
CBS移籍を決めたマイルスが、プレスティッジとの契約終了をまたずに録音したマイルス・クインテットの逸品。このメンバーでの録音はこれで最後となる。繊細なマイルスのミュートと、ホットなコルトレーンのテナーの対比が絶妙。
「ラウンド・ミッドナイト」、「オール・オブ・ユー」、「懐かしのストックホルム」は、このアルバムで聞ける演奏がベスト。
神保町「響」でリクエストが多かったのも、この時期のクインテットによるレコードで、あとは『マイルス・イン・ベルリン』とか『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』、『フォア・アンド・モア』のライヴ盤。
モダンジャズの店だから当たり前だけど、『ビッチェズ・ブリュー』以降のマイルスがかかるのは、新譜が出たときくらい。
おれの記憶はずいぶんいい加減だけど、「響」で『ビッチェズ・ブリュー』を聴いたことは一度もない。
神保町の純喫茶「響」は、50年代モダンジャズがよく似合うジャズ喫茶だった。
マイルス・デイビス Miles Davis
1926年5月26日イリノイ州アルトン生まれ。翌年、イーストセントルイスに転居。父親は裕福な歯科医。
13歳からトランペットをはじめ、ハイスクール時代に自己のバンドを結成。41年にランディ・ランドルフのバンドに加わり、ツアー中のチャーリー・パーカーとも共演。1944年7月ディジー・ガレスピーの推薦でビリー・エクスタイン楽団に迎えられた。
1945年、チャーリー・パーカーを慕って19歳でニューヨークに進出。ジュリアード音楽院に学ぶ(中退)。麻薬で困窮していたチャーリー・パーカーと同居し、52丁目でビ・バップの巨人たちとジャム・セッション。45年11月サヴォイ・セッションで初のレコーディング。
1948年、初めてのリーダー・セッションを録音。
1949年、リー・コニッツ、ジェリー・マリガン、ジョン・ルイス、ギル・エヴァンスらと9重奏団を結成、「ロイヤル・ルースト」にて2週間公演。翌49年、キャピトルにおいて『クールの誕生』を録音。
一時期、麻薬により不調、1954年に復帰。ハードバップ時代の幕開けを飾る『ウォーキン』をプレステッジに録音。
1955年、ジョン・コルトレーン(ts)、レッド・ガーランド(p)、ポール・チェンバース(b)、フュリー・ジョー・ジョーンズ(ds)による伝説のクインテットを結成。CBSに移籍し、名盤『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』、プレステッジ4部作を録音。
1957年、パリへ渡り、バルネ・ウィランら現地のジャズメンと映画『死刑台のエレベーター』のためのサウンドトラックを即興演奏で録音。
レギュラー・メンバーにキャノンボール・アダレイ(as)、ビル・エヴァンス(p)を加え、モード奏法によるアドリブを完成。1959年『カインド・オブ・ブルー』を録音。
1960年にコルトレーンが脱退。流動的なメンバーでライヴ・レコーディング中心に活動。
1964年7月、ハービー・ハンコック(p)、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムス(ds)を従えて初来日。同年秋にはウェイン・ショーター(ts)を加え、黄金のクインテットを結成。
1969年、ファンクなリズムとエレクトロニクス・サウンドを大胆に導入した異色作『ビッチェズ・ブリュー』を発表。1970年代ジャズ・シーンに多大の影響を与える。
1975年に体調を崩し演奏活動を中断。
1983年3月に復帰。同年9月、新宿と大阪で来日コンサート。
ブルース、ロック、ヒップホップなど時代のサウンドを積極的に取り入れ、伝統的なジャズの演奏を超越した独自の「マイルス・サウンド」を追求し続けた。
1991年9月28日 、肺炎のため死去。享年65歳。