劇付随音楽「真夏の夜の夢」 作品61
ベルリンのポツダム門の近くに住んでいたユダヤ系の裕福な銀行家は、屋敷内に百人以上を収容できるコンサート・ホールを作り、日曜日ごとに演奏会を催していた。この大規模なプライベート・コンサートには、ヘーゲル(哲学者)やフンボルト(地理学者)などの文化人も、常連で顔を見せていたという。
このような恵まれた家庭環境のなかで、フェリックス・メンデルスゾーン(1809−1847)は、苦労も苦悩もなく自由に音楽的才能を延ばし、幼少時から優れた音楽を作曲していた。彼の音楽の特徴は、優美、華麗、明朗。史上もっともチャーミングな曲を書いたモーツァルトに近い位置にいながら、モーツァルトと決定的に違うのは、疑いを知らない屈託のなさであり、天性の幸福感だろう。モーツァルトの音楽を際立たせていた「美の内側に秘められた翳り」というものは、メンデルスゾーンの音楽にはない。内面的な美しさと外面的な美しさが、表裏なく一体となって、素直に表現されている。(そしてここがメンデルスゾーンの最も凄いところだが)以上のように極めてブルジョア的な環境から生まれたにもかかわらず、彼の音楽には高慢な気取りがまったく感じられない。貴賤の区別なく遊び回る子供たちのように、無邪気でフレンドリーなのだ。
今回とりあげる劇付随音楽「真夏の夜の夢」は、そんなメンデルスゾーンの特質が最も顕著に示された、彼の代表作である。
ウィリアム・シェイクスピアの「夏の夜の夢」に触発されたメンデルスゾーンが、「真夏の夜の夢・序曲」を作曲したのは、17歳のとき(1826年)だった。姉のファニー・ヘンゼルとの演奏を前提に、最初はピアノ連弾用として書かれたが、のちに管弦楽用に編曲された(作品21)。「序曲」の初演は、1829年に旅行先のイギリスにておこなわれている。
プロシア王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の依頼により、「序曲」以外の曲が追加作曲され、1843年、プロシア国王のポツダム新宮殿において初演された(作品61)。「序曲」と「全曲版」の間には約16年のへだたりがあるが、歳月を微塵も感じさせないほど統一感のある作品に仕上がっている。これはメンデルスゾーンが若くして自己の音楽スタイルを完成させていたという証拠でもあるし、彼の無垢な感性が、屈折することなく、大人になってもなお清新であったということの証明でもある。
原題「A Mid Summer Night's Dream」の「Mid Summer」とは、6月24日の夏至の日、聖ヨハネの誕生節の前夜であり、欧州ではこの季節が訪れると、森に棲む妖精たちが悪戯をしに現れるという伝説がある。
妖精の王オベロンは、ドイツではワーグナーの「ニーベルングの指環」でお馴染みのアルベリヒと同一とされており、ヴェーバーの歌劇「オベロン」にも登場する。
シェイクスピアの劇中には「五月祭の花を摘もうとしてこの森に来たのだろう」という台詞もあることから、夏至よりもさらに前の季節であると推察され、近年は「夏の夜の夢」の邦題で上演されることが多くなった。
しかしながら、メンデルスゾーンの劇音楽については、なぜか従来どおり「真夏の夜の夢」のまま流通しているようだ。
作曲年代:1826年(序曲のみ) 1843年(劇音楽:作品61)
初演:1829年(序曲のみ)
1843年 プロシア国王のポツダム新宮殿にて(劇音楽:作品61)
楽器編成:
フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、シンバル、弦5部
劇音楽(作品61)の3曲目と12曲目で、ソプラノ独唱、メゾソプラノ独唱(またはアルト独唱)、女声合唱が加わる
楽曲構成:作品21
1. 序曲
ソナタ形式 舞台は婚礼間近のシーシアス公爵の館
楽曲構成:作品61
1. スケルツォ
第2幕の前奏曲
2. 情景(メロドラマ)と妖精の行進
夫婦喧嘩をしているオベロン王が従者を伴って登場
3. 歌と合唱「舌先裂けたまだら蛇」
オベロンの妻、ティターニアのために唄われる子守歌
4. 情景(メロドラマ)
5. 間奏曲
第2幕と第3幕の間に演奏される間奏曲
6. 情景(メロドラマ)
7. 夜想曲
妖精パックの魔法で眠らさせる二組の恋人たち
8. 情景(メロドラマ)
9. 結婚行進曲
二組の恋人たちが結婚し、オベロン王も妻と和解
10. 情景(メロドラマ)と葬送行進曲
余興の音楽
11. ベルガマスク舞曲
第5幕の終わりの踊り
12. 情景(メロドラマ)と終曲
オベロン王と妖精たちが退場し、パックが結びの口上を述べる
演奏時間:約12分(序曲:作品21) 約45分(劇音楽:作品61)
メンデルスゾーン:劇付随音楽「真夏の夜の夢」
ラファエル・クーベリック指揮
エディット・マティス(ソプラノ)
1. メンデルスゾーン:「真夏の夜の夢」op.61(10曲)
1964年(1) 1963年(2-4) ステレオ録音 |
古典派と初期ロマン派の中間にあるメンデルスゾーン。テンポ早めで、すっきり透きとおった爽やかな演奏でありながら、メルヘンチックな雰囲気もほのかに漂ってくる、クーベリック&バイエルン放送響による逸品。
メンデルスゾーン:劇付随音楽「真夏の夜の夢」
オットー・クレンペラー指揮
ヘザー・ハーパー(ソプラノ)
1. 序曲「フィンガルの洞窟」op.26 1960年 ステレオ録音 EMI |
全曲版より「メロドラマ」を割愛した、10曲の抜粋版。厳格なクレンペラーとメンデルスゾーンでは水と油のような印象だが、これがどうして、クレンペラーの生涯のなかで一、二を競うベスト・レコーディングとなった。格調高く、スケールの大きな演奏はロマンに溢れている。それでいて遊びごころを忘れることなく、眩しいばかりに無垢な輝きを放っているのが素晴らしい。「真夏の夜の夢」のベスト・ディスクとして、発表当時から多くの人に絶賛されている名盤。
メンデルスゾーン:「真夏の夜の夢」(全曲版)
アンドレ・プレヴィン指揮
リリアン・ウォトソン(ソプラノ) 1976年 ステレオ録音 EMI Echo 輸入盤 |
14曲を収録した全曲版。ミュージカル映画の音楽監督を務めていただけあって、物語性の強い楽曲をやるときのプレヴィンは抜群に巧い。ことに「序曲」での弦の細やかな動きは、森に潜む妖精たちの囁きを上手く表現して素晴らしい。フィンチェリー児童合唱団を起用して、妖精たちの無邪気さ、神秘性を表現したのも成功している。
プレヴィンには、1985年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したPhilips盤もあり、こちらも高い評価を得ている。