映画音楽について続ける
June 5, 2006
交響曲第○番とか、作品番号○○番なんて味気ないタイトルよりも、表題を持つタイトル(例えば、「田園交響曲」とか「亡き女王のためのパヴァーヌ」とか)のほうが取っつきやすいというのは、その曲がなにを題材にしているのか分かりやすく伝わってくるからだと思うのです。
で、作曲家の意図したもの、作曲の動機とかテーマなんかを汲み取ろうとしたとき、ロマン派以降の標題音楽って、具体的で入りやすいんですね。
女優を熱愛するあまり精神に異常をきたした若者が、阿片を飲んで自殺を計る。しかし分量が少なくて死ぬに死ねず、異常な幻想をみて苦しむ。(ベルリオーズ「幻想交響曲」)
前提としてこのようなストーリーが用意されていると、聴き手は、作曲家がそれをどのような音楽で表現しようとしているのか、興味をもって聴こうとする。
先に挙げたバーバーの「弦楽のためのアダージョ」や「ツァラトゥストラはかく語りき」は、映画で使用されてグンと知名度が上がったのですが、もちろん、これらの曲は映画のために作曲されたものではないので、作曲者の意図とは異なる使い方がされています。
まあ、この2曲に限って言えば、そんなに的外れな使用とは思わないのですが……例えば、チャップリンの『独裁者』でのワーグナーやブラームスなんかは、明らかに作曲家の意図とは無関係な使われ方をしています。
「映画音楽は映画のために作曲したものだから、音楽だけを切り離して聴かれるのは不本意」という作曲家は多いですが、このように逆のケースもあります。
作曲家本人が故人だから、文句は出ない。
たまに、「チューブラー・ベルズ」のマイク・オールドフィールドのように、「平和を願って作った曲を怪奇映画に使われた」って憤慨する作曲家もいますけど。
映画音楽を映画と切り離して聴く場合でも、このような表題性だけは、やっぱり出てきます。
ドン・エリスの『フレンチ・コネクション』は、アバンギャルドなジャズとしてだけでなく、刑事ドラマの背景音楽として聴いてしまう。
未見の映画であっても、タイトルに『ハリー・ポッター 炎のゴブレッド』とあれば、どの場面のどんなカットにどのような音楽がついているのか、といった細かいことはさておき、「これは魔法使いの少年が主人公の冒険を描いた音楽なのだな」と、見当がつく。
ここに、映画音楽の特異性があるわけで、映画を構成する一つの要素としての映画音楽と、レコード(CD)にパッケージされた商品としての映画音楽を別個のものとして考えた場合でも、このあたりが曖昧というか完全に分離できないのですが……続きは、また今度。