サントラ盤との決別宣言
September 16, 2006
冥王星の惑星脱落ニュースに便乗して、ホルストの組曲「惑星」を採り上げて以来、いろんな演奏の「惑星」を聴き比べて愉しんでいるのですが……
この楽曲が映画音楽全般に与えた影響というのは、やはり大きかったと感じますね。
映画音楽作曲家を志して勉強されているjumusさんが、「惑星」のコレクターであるというのも(あるいは「惑星」コレクターが先で、後に映画音楽に興味を持たれたのか分かりませんけど)、なんとなく頷けるものがありますです。
7曲から構成されている組曲「惑星」のなかでは、「火星−戦争をもたらすもの」と「木星−快楽をもたらすもの」がダントツに有名ですが、他の曲もそれぞれに個性的で面白いです。
5曲目「土星−老いをもたらすもの」のイントロは、まんま『エイリアン』のスリープ覚醒場面ですね。
最終曲「海王星−神秘なるもの」のイントロ部分は、これもゴールドスミスが、『ポルターガイスト』とか『サイコ2』などホラー映画のサスペンス場面で似たようなフレーズを書いていました。で、しばらくするとまた聞き覚えのあるサウンドが……これはバーナード・ハーマンの『シンバッド七回目の航海』のオープニング(濃霧の海の場面)だな。
こんなのはほんの一例。他にも沢山あります。
誰か「惑星」全曲の総譜(スコア)を分析して、解説してくれないかな。
「金星」の何小節から何小節まではこの映画のこの場面、「水星」のバスクラが演奏している何小節目のフレーズはこの映画のテーマになっているとか。具体的に譜面を使って。
(そんな暇な人はいないです)
一瞬、自分でやってみようか、とか……脳裏を走ったんだけど。よく考えてみるまでもなく、絶対に無理だと0.2秒で悟りました。
そんなに映画音楽に詳しくないっすから。
上の例だって、ゴールドスミスやハーマンが好きでよく聴いていたから、たまたま気づいたくらいです。
「火星」の1、2、3、1、2のリズムをパクって訴訟騒ぎになったハンス・ジマーなんて、霞んでしまうくらい沢山の映画音楽作曲家が釣れると、思いますけどね。
マジで誰かやってくれないかなあ。
本末転倒は承知の助。
でも「惑星」を聴いていると、どうしてもネタ元をあら探ししてしまうんですね。
英国のグスターヴ・ホルストが1914年から1916年。4曲抜粋の非公式初演が1918年9月28日。指揮はエイドリアン・ボールト。アルバート・コーツ指揮による全曲公式初演が1920年11月7日。商業映画のトーキー化が1920年代半ばですから、映画音楽黎明期前夜です。
ホルストは1874年9月生まれですから、1988年生まれのマックス・スタイナーやロイ・ウェッブよりも一世代お兄さん。この世代はまだ、映画音楽作曲家なんて専門職を目指して作曲家になった人はいなくて(映画に音がつくなんて、想像もできなかったくらいでしょう)、ヴォーン・ウィリアムズ、アーサー・ブリス、セルゲイ・プロコフィエフ、エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト、ジョルジュ・オーリック、アーロン・コープランド……アカデミックな楽壇にいた人が、片手間仕事で映画音楽も書いていたんでしょう。
片手間っていったらなんか、アレですね、誤解を招きそうなので……
バレエや劇付随音楽のような新しい音楽の一分野として、意欲を持って作曲していた音楽家も、なかにはいたかも知れません。
RKOラジオのスタイナーやロイ・ウェッブ、20世紀フォックスのアルフレッド・ニューマンあたりが、先駆者ってことになりますでしょうか。CBS放送管弦楽団の指揮者だったバーナード・ハーマンも、片手間仕事のラジオドラマ劇伴がきっかけになって映画の世界に入ってきたし。フランツ・ワックスマン、ミクロス・ローザ、ディミトリ・ティオムキン……この辺りは、たまたまハリウッド映画の勃興期にめぐり逢って、映画界に仕事が得やすい状況にあった、ということでしょうね。映画をやろうと思って音楽を勉強してきた人たちじゃない。
映画音楽作曲家が専門職として確立された次の世代。エルマー・バーンステイン、ヘンリー・マンシーニ、ジェリー・ゴールドスミス、ジョン・ウィリアムス……物心ついたころにはもう映画に音楽が付いていた、という世代ですね。
先人たちが、試行錯誤、切磋琢磨して映画音楽のシステムが確立された、その後で業界に入ってきた音楽家たち。
この世代の「映画音楽作曲家」が、いちばん幸福な人たちだと思います。
最近の映画音楽は没個性的で、どれも同じような作りになっている。
原因は、似たようなオーケストレーションにあるらしい。
その点、ゴールドスミスやジョン・ウィリアムスのスケッチは、細部まで作曲家の個性が反映さたオーケストレーションが施されている。
さすがベテラン作曲家はやることが違う。
よく聞く話ですが……
それもそのはず、この世代の作曲家が仕事を始めたころは、まだ専属のオーケストラと録音スタジオが撮影所内にあって、それぞれのメジャー・スタジオにはアルフレッド・ニューマン(20世紀フォックス)やマックス・スタイナー(ワーナー)といった、百戦錬磨のベテラン作曲家が音楽部長として君臨していたわけで、JGにしろJWにしろ、そういった先輩の庇護と指導の下で、映画音楽作曲家の仕事の一部始終を学んでいるわけです。
スケッチであっても、このように書いておけば自分の考えどおりにオーケストレーションしてもらえる、演奏してもらえる。
その技(ワザ)というか、技術というか、コツのようなものを、新人時代から叩き込まれているわけです。
出来て当たり前、できなきゃ40年前に消えている。
60年代以降、ハリウッドのメジャー・スタジオは撮影所を縮小し、自前のオケも音楽部も廃止。フリーランサーの音楽家と作品毎に契約して、映画音楽の仕事をさせています。スタジオ内で育まれてきた技術やワザを伝える縦の人脈は、もうありません。
それに代わる人脈となりそうだったのが、ハンス・ジマーとその一派。
MV(メディア・ベンチャーズ:現在は名称が変わったらしい。詳しいことは知らない、興味がない)は、ハリウッド・スタジオに映画音楽を供給する音楽家集団。
その親玉は、ハロルド・フォタルマイヤーに誘われて映画界入りした、ドイツ出身のハンス・ジマー、1957年生まれ。
(ハンスって名前だと、たいていドイツ人かドイツ出身ですね。日本人の太郎とか一郎に相当するのかな?)
このドイツ人を中心に、似たような音楽を創る人々が寄り集まって、作曲から編曲オーケストレーションまで、ベルトコンベア方式でハリウッド映画音楽を量産。音楽家が個々の自我を捨て、同一色の音楽をゴチャっと作るのが特徴。
はっきり言って、誰が作曲を担当しているのか、クレジットを見るまで分からない。
しかも内部フィードバック機能が充実しており、当たった映画音楽のサウンドは繰り返して何度も使用。
更に凄いことに……
彼らが作り出したサウンドを、彼ら以外の、例えば東アジアの某島国の作曲家たちまでもが真似するに至って、現在公開されている映画音楽の約30パーセント以上が、同じ音楽に聞こえるという異常事態にまで発展。
まさに21世紀型映画に適応した、ナイスな音楽集団といえますです。
ああ、また長くなってきたなあ……
今回のタイトルは何だったっけ?
「サントラ盤との決別宣言」
そうでしたそうでした、宣言しなきゃいけないんでしたね。
結論は……あるんです。決まってるんです。
もう動かしようがない。屹然とした結論が。
しかし、それが、なかなか、口にしづらい。
1年前……そう、あれはゴールドスミス没後1周年の、あの頃。
出ているんです。結論。
確固たる意思が。
ただそれが、なかなか、ストレートに書けない。
持って回る、遠回しな……
つまり婉曲表現?
いや、そうじゃなくて……穏やかなるユーフメズン?
(なんでも横文字で書けばとおると思ったら大間違いだ!)
よし、はっきり言ってしまおう。
サントラ盤マニアは幼児的な変態。
いや、だから、そう直接的ではなくてですね。
もう少し穏健な、つまり、いわいる一つのカーム(calm)ですか? いえ、なにも横文字使ったからといって、サントラ盤マニアが変態であることに違いはないんですけど。肝心なのは、そのような要らぬ誤解を招いて波風を立てるようなことを、ダイレクト・ライティングしてはいけない、ということです。法と秩序に基づいて分かり易く、順序よく丁寧に、ソフトリーな表現とフレンドリーな愛情。それこそが、いちばん大事でなにより大切なもの。スキンシップは愛情表現の第一歩です。私は何を言っておるのだ。スキンシップでグッドジョブ。いけない、混乱している。だから、書くなと、これまで厳しく自己抑制してきたのに。とは言え変態は変態なんだから仕様がない。ちょっと話を整理しよう。まずホルストの「惑星」です。そう、今日はそこから始まった。映画音楽はみんな「惑星」を真似してる。みんなは言い過ぎだな。「惑星」だけじゃなくて、ワーグナーなど他の音楽も真似してるけど。それはちょっとこっちに置いといて。「惑星」は愉しい。それには同意。で、映画音楽。トーキーが始まったのは1928年頃だったっけ? ホルストが亡くなったのは1934年、享年60歳。スタイナーの『キング・コング』が1933年だから、トーキー映画に音楽を書いていてもおかしくない世代。ギリギリ、セーフ。でも書いてない。同じ時代に活躍していたヴォーン・ウィリアムズとかアーサー・ブリスとか、イギリスの作曲家はほとんど映画音楽を書いている。英国は映画音楽が専門職になり得なかったから、いろんな人が書いている。アーサー・ブリスの『来るべき世界』は映画音楽の傑作だ。ジョン・バリー以前のイギリス映画は、アカデミックな楽壇に在籍する作曲家が多い。片手間じゃない証拠に、ほとんどの作曲家が自作の映画音楽を演奏会用に自分で編曲してる。ティオムキンやバーンステインみたいに、映画のために作曲したのだから音楽だけを切り離して聴かれても困る、という発言はしていない。そのためにコンサート用に編曲し直したものを録音している。これはロシアだけど、『アレクサンドル・ネフスキー』のプロコフィエフや、『ハムレット』のショスタコーヴィッチもやってる。フランスのオーリック(『美女と野獣』)やオネゲル(『レ・ミゼラブル 噫無情』)もやっている。逆に言えばハリウッドが例外的なんだな。そもそもサントラ盤って何だ? 映画のサウンドトラックに録音したスコア(総譜)に基づいた演奏を録音したレコード(CD)。実際は映画とまったく同じ音源ではない。かつてはレコード用に編曲し直して録音されたものをサントラ盤と称しているのが普通だった。例えばエルマー・バーンステインの『黄金の腕』とかJWの『JAWS ジョーズ』とか。そういうのがほとんどだった。例外だったのはマイナーなヨーロッパ映画、セブンシーズがセリフ入りのサントラ盤をリリースしていたんだけど、これはフィルムのサウンドトラック音源を使って日本で制作していた。ハリウッド製のサントラ盤は、ほとんどがサウンドトラック用スコアの再演奏盤。ここ数年、スタジオの倉庫から音楽音源を発掘して、正真正銘サウンドトラック盤を限定リリースしているけど、以前アナログ時代に発売されていたスコア再演奏盤のほうが聴きやすいし、音質も良い。映画とまったく同じ音源を聴きたけりゃ、映画そのものがDVDになってる。しかも限定盤サントラCDよりも安値で売られている。それを聴けばいい。そもそもサントラ盤ってのは、まだ家庭用ビデオが普及していなかった時代に、映画の代用品として購入されていた事実。映画鑑賞の記念にどーぞ、って。つまりタイアップ商品。映画と同じ音楽が入ってりゃ、音楽の質、内容なんてどうでもいいの。購入者は音楽を聴くんじゃなくて、映画の思い出を聴くんだから。正真正銘完全収録3000枚限定サウンドトラック盤を有り難がって聴いてるのは変態だ。『JAWS ジョーズ』はコレクターズ・エディション盤(Decca)が出たけど、MCAのオリジナル・サントラ盤(つまりレコード用録音)の方が良かった。コレクターズ・エディション盤はダラダラと長い。MCA盤に収録されてなかったトラックが沢山追加されて最初は新鮮に聞こえるけど、何度か聴くと長さに退屈してしまう。『JAWS ジョーズ』は好きだからVarese Sarabandeのロイヤル・スコティッシュ盤も持ってる。これも長くて途中で飽きる。やっぱりオリジナルMCA盤がいい。映画の進行と違う曲順だけど。それでもMCA盤が断然いい。映画と同じ並びで全曲聴きたけりゃDVDを観ればいいこと。コレクターズ・エディション盤からも漏れたキューがあるらしい。それも聴きたけりゃDVDがある。そこまで執着するのは変態。そもそもヘンリー・マンシーニの音楽が、なぜ今日まで普遍的な人気を保っているのか、考えてみたらいい。サントラ盤を、映画と完全に切り離した聴き方をされてもいいように、レコード用にちゃんと編曲してリリースしていたからだ。日本で映画音楽のブームが起こったのは1960年ごろの事。ヒットチャート連続1位の『エデンの東』や「遙かなる山の呼び声」(『シェーン』)はヴィクター・ヤング楽団、『大脱走』はミッチ・ミラー合唱団の演奏。ジェリー・ゴールドスミス唯一のポピュラー・ヒット曲「パピヨンのテーマ」は、レーモン・ルフェーブル楽団やアンディ・ウィリアムスなどのカバー盤が数種類発売されていた。こういったカバー盤を買っていた人、ヒットさせていた人たちは、実際は映画や映画音楽にあまり熱心ではない普通の人々。「パピヨンのテーマ」は聴いたことのある曲、綺麗で切なく好きな曲だが、作曲者の名前は知らない普通の人々。近年の映画音楽ヒット作品というと、『タイタニック』と『ボディガード』だが、バカ売れした挙げ句の果てに、いまはブックオフの100円コーナーをズラリ占拠してしまっている始末。普通の人々は一過性のヒット曲として映画音楽を聴く。
しかし、幼児性変態のサントラ盤マニアは、このような普通の人々をバカにしてはいけない。
なぜなら、「音楽が残る」ってことは、そういうことだから。
オリジナル至上主義は、映画グッズとしての「サントラ盤市場」を拡大しているのかも知れない。それでもたかだか3000枚の世界。オリジナル音源を唯一無二のものとして崇めていれば自己満足。狭すぎる世界。一方、ホルストの「惑星」は作曲されてから80余年を経て、まだなお新しいリスナーを獲得している。「惑星」には、初演指揮者とオケによる録音盤も、作曲者自身が指揮した自作自演盤もある。いわばオリジナル。しかしそれらのディスクを求めるのは、「惑星」なら何でも聴いておきたいという一部のマニアだけ。数は限定される。オリジナル・サントラ至上主義者と同じようなもの。「惑星」が今日もなお話題となり、多くのリスナーに聴かれているのは、常に新しいディスクが録音されているから。最初のヒットとなった1961年のカラヤン&ウィーン・フィル盤や、1971年のメータ&ロス・フィル盤、爆裂演奏で人気を得たレヴァイン&シカゴ響盤といった名盤は、現在でも容易に入手可能。誰でも愉しむことができる。ラトルの最新録音盤はベストセラーになっている。女声合唱付でオルガンなど楽器編成も大きいところから、演奏の機会は他の楽曲と比べてあまり多いとは言えない。それでも年に数回は演奏されている。では、映画音楽でそのようなことはできないのか? 映画音楽が、映画のひとつの構成要素としてしか捉えられていないのでは、無理。しかし映画はデジタル化され不滅のものとなった。映画を観れば音楽も同時に楽しめる。それはそれで良いこと。もともと映画音楽とは、そういう目的で作曲されているのだから。つまり、映画音楽を映画のひとつの構成要素として捉えるなら、DVDがあれば事足りるわけで、一部のマニア以外はサントラ盤など不要。しかし映画音楽のなかには、音楽だけを独立させても充分に愉しめるものが、少なからずあるのも事実。そうした優れた作品は、コンサート用に聴きやすく編曲して、演奏する機会が増えれば良いと思う。『スター・ウォーズ』や『風と共に去りぬ』が何故人気を得ているのか、コンサート会場で実際に聴いてみれば分かる。オーケストラの実演には、家庭用オーディオでは味わえない興奮がある。神奈川フィルはせっかくゴールドスミスと縁があったのだから、年に1回くらいはメモリアル・コンサートをやれば良いと思う。ロバート・タウンソンは、どしどし新録音盤をリリースすればいいと思う。オリジナル音源が古いゴールドスミス作品など、新録音で聴きたい作品はたくさんある。単独コンプリート・スコア盤ではセールスにならないというのなら、聴き所を20分くらいにまとめた組曲に編曲して、売れセンの作品と複数カップリングすればいい。オリジナル音源以外の映画音楽は、サントラ・マニアに敬遠される? 映画グッズとして扱っているあいだは、売れない。いつまでも幼児性変態を相手にしていたら3000枚が限度。優れた音楽作品として扱うなら、一般的なクラシックCD(ショップのクラシックコーナーで売られている、という意味)程度には売れると思う。英国Chandosの作曲家シリーズやNaxosのクラシック・フィルム・スコア・シリーズのようなCDリリースが、もっと増えればよいと思う。真に独創的で優れた音楽は、映画音楽(商業音楽)であっても、ストラヴィンスキーやホルストなどと同じ土俵で評価されてもよいと思う。優れた映画音楽は映画と独立して、いろんな場所で、いろんな聴き方をされていいと思う。
幼児性変態のサントラ盤マニアには、相手にされないだろうけど。
「音楽が残る」ってことは、そういうことだから。