バルトーク・ベーラ
Bartok Bela(1881-1945)
1881年3月25日、ハンガリーのナジュセントミクローシュ生まれ。父親は農学校の校長で、母親はピアニストだった。5歳のころから母親の手ほどきでピアノを習う。父親もチェロを弾き、町に音楽協会を設立するほどの音楽好きだったが、バルトークが7歳の時に病死。10歳のとき自作ピアノ曲とベートーヴェンのソナタを公開演奏。
1899年、ブダペスト王立音楽院に入学。作曲をハンス・ケスラー、ピアノをトマーン・イシュトヴァーンに師事。ベートーヴェンをはじめとするドイツ・オーストリア音楽に強い影響を受けていたバルトークだったが、リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」に衝撃を受け、交響詩「コシュート」を作曲。
1905年、パリのルービンシュタイン音楽コンクールにピアノ部門と作曲部門で出場。優勝はできなかったが、ここで民謡研究家のコダーイ・ゾルターンと出会い、ハンガリー、ルーマニア、スロヴァキアなど東ヨーロッパの民謡の蒐集をはじめる。
1907年よりブダペストの国立ハンガリー音楽院でピアノ教授を務めていたが、1912年に辞職、作曲に専念する。1939年に第二次世界大戦が勃発、ナチスの文化政策を嫌ったバルトークは、1940年、祖国を離れアメリカ移住。コロムビア大学より名誉音楽博士の称号を得て民俗音楽の研究に没頭するが健康状態が悪化。病名は白血病。
妻の誕生日祝いに用意していた「ピアノ協奏曲第3番」をほぼ完成させて、1945年9月26日、ブルックリンの病院にて死去。遺体はいったんニューヨークの墓地に埋葬されたが、ゲオルグ・ショルティらの尽力によりハンガリーに遺骨が移され、1988年にあらためて国葬が行われた。