ジョージ・ガーシュウィン
George Gershwin(1898-1937)
ジョージ・ガーシュウィンは、1898年9月26日、ニューヨークに生まれた。両親はロシア・サンクトペテルブルグ出身のユダヤ系移民で、父親モリスは脳天気というか楽天家というか、次々と商売を始めてはそれを潰し、次々と住居を変え、絶えず経済破綻を繰り返していた。
一家にはユダヤ教の信仰心もほとんどなく、週末になると両親は友人の家に出掛け、または友人たちを家に招いてカードゲームに興じていた。このような、根無し草的移民家庭の子どものなかには、ギャングになる奴も多かったし、ジョージもそちらの道を極めてもおかしくない環境に育っていた。
少年時代のジョージは、喧嘩好きな腕白小僧。得意のローラースケートで、アイルランド系、ユダヤ系、イタリア系の縄張りをスリリングに走り回っていた。アイルランド系の少年に追いかけられ、エレベーター・シャフトに転がり落ち、脳震盪を起こしたこともある。
そんな或る日のこと……
12歳のジョージは、学校の講堂から聞こえてくるヴァイオリンの音色に、心を奪われた。曲はドヴォルザークの「ユモレスク」だった。
ジョージは演奏しているのが誰なのか知りたくて、講堂の前で見張っていた。しかしそれらしき人物は出てこない。
1時間ほど待っていると、天空から大粒の雨が落ちてきた。
ずぶ濡れになったジョージは辛抱できず、講堂の中に駆け込んで、訊いた。「さっきヴァイオリンを弾いていたのは誰ですか?」
マクシー・ローゼンツヴァイクの家は、ジョージの家から数百ブロック離れた場所にあった。急き立てるような激しいノックの音。玄関のドアを開けたマクシーの両親は目を丸くして驚いた。濡れた服のままのジョージが、雫をしたたらせながら、顔を輝かせて立っていた。
のちにマックス・ローゼンと改名し、名ヴァイオリニストとして名をあげるマクシー少年は、ジョージよりも1歳年下だった。二人はすぐに仲良くなり、ジョージは頻繁にローゼンツヴァイク家に通うようになる。
マクシーは、有名な音楽家や、作曲についての話をしてくれた。ローゼンツヴァイク家にあったピアノを(見よう見真似で)弾くようになったジョージは、いつの日かマクシーの伴奏者になることを夢見ていた。そのことを本人に打ちあけると、「諦めろ、ジョージ、きみには音楽の才能がない」と、未来のヴィルトゥオーソは冷静な声で言った。
ジョージのアパートに、中古のアップライト型ピアノが運ばれてきた。叔母の家にあるのを見て、負けず嫌いの母親ローズが(見栄をはって)月賦で買ったのだという。
ローズはこのピアノをジョージの兄・アイラに弾かせようと考えていた。アイラはジョージとは何もかも正反対。勤勉実直でいつも本を読んでいる、おとなしい性格だった。
ところが、ピアノは弟のジョージが独占してしまった。椅子の高さを調節し、ピアノのふたを開けると、ジョージは一気呵成に当時の流行歌を弾き始めた。
喧嘩三昧の毎日をおくっていたジョージが音楽に興味を持っていたことなど、家族はだれも知らなかったので、アッと驚いた。さらに驚いたのは、彼の演奏の巧さだった。もっと驚いたのは、その日を境にジョージは少年ギャング予備軍から足を洗い、ピアノに夢中になったことだった。
両親は、ジョージを街のピアノ教師に通わせることにした。ジョージはすぐに譜読みを覚え、学校の催し物などでピアノを演奏するようになった。
このころのジョージのアイドルは、「アレグザンダーズ・ラグタイム・バンド」のヒットで有名になったアーヴィング・バーリンだった。
また、ジョージはクラシック・コンサートへも熱心に通うようになり、学生オーケストラとも、ピアノで共演している。
巷で流行しているポピュラー・ミュージックも、ベートーヴェンやシューベルトなどのクラシックも、彼のなかでは区別がなく、どれも「素敵な音楽」だった。
中学を卒業したジョージは、すぐにでも音楽関連の仕事に就きたがっていたが、母親は堅実な人生を願い、彼を商業高校へ進学させた。
1913年の夏休み、ジョージはリゾートホテルでピアノを弾き、週5ドルの賃金を得る。自分のピアノが銭になることに自信を得たジョージは、もともと勉強嫌いだったし、音楽出版社のオーディションに受かると、さっさと商業高校を中退してしまった。
ジョージは、1914年ごろからチャールズ・ハンビッツァーという音楽教師に師事し、練習曲と音階の基礎を体系的に教わっている。このハンビッツァーという一風変わった教師は、すぐにジョージの才能に気づき、ピアノ奏法だけでなく、和声、音楽理論、管弦楽法などを、J.S.バッハ、ベートーヴェンから、(当時最先端だった)ドビュッシーやラヴェルを例にあげて教えようとしていた……が、ジョージはそれらに強い興味を示しながらも、商業音楽の世界に行ってしまう。
これは彼の家族や生活環境をみると、仕方ないことだ。明日の千円より今日の百円。修得するまで何年かかるか見当もつかない管弦楽より、いま自分が持っている技術がすぐにでも金に化けるのなら、迷うことなくそっちを選ぶ。
なにしろ、ジェローム・H・リミック社(音楽出版社)に、週給15ドルで就職したとき、ジョージはまだ15歳の子どもだったのだから。
リミック社で働き始めたガーシュウィンのピアノは、評判が良かった。彼は得意の即興演奏を交え、同じ曲を幾通りも違うように演奏してみせた。社長はすぐにジョージをソング・プラッガーに昇格した。
ソング・プラッガーというのは、音楽出版社のセールス担当者のことで、自社が版権を持っている楽譜を持って、レビューやミュージカルの関係者に売り込みに出掛ける。ジョージはこの仕事を通じて多くの歌手や演出家、演奏家と出会い、人脈を拡げてゆく。
天性の社交好きもあって、ジョージは頻繁にパーティに顔を出した。アデールとフレッドのアステア姉弟との最初の出会いもそのころ。
しかしジョージの好奇心は器用な商業ピアニストだけに収まるものではなく、いつかきっとアーヴィング・バーリンやジェローム・カーンのようなヒットソングを書いてみせると野望を秘め、次々と習作を作曲していた。後年ジョージは、(そのころ書いた曲について)「ジェローム・カーンに敬意を表して、素直に真似しました。当時の作品は、カーン自身が書いたようなサウンドになっています」と述べている。
同時にジョージは、機会があるごとにクラシック・コンサートも聴きに行った。チャールズ・ハンビッツァーの指導も、断続的に受けていた。
2年間勤めたリミック社を辞めて作曲に専念することにしたジョージは、1919年、アーヴィング・シーザーと一緒に「スワニー」という曲を作り、ブロードウェイの興行師ネッド・ウェイバーンに見せた。
ネッドはこの曲が気に入り、キャピトル劇場で上演していた「キャピトル・レビュー」のなかに(総勢60名のコーラスガールを使って)組み込んでくれたが、客席の評判は芳しくなく、シートミュージックの売れ行きもふるわなかった。
結果に失望しながらも、曲の出来には自信があったので、ジョージはパーティなどで「スワニー」をよく弾いていた。これを耳にしたアル・ジョルソンが、自分のステージで唄いたいと申し出た。
「スワニー」はすぐに「シンバッド」というレビュー・ショウに取り入れられ、大ヒットした。ジョルソンが録音したレコードは飛ぶように売れ、シートミュージックも250万枚売れた。
ジョージ・ガーシュウィンは、ティン・パン・アレーのヒットメイカーとして、ようやく認知されるようになった。
「スワニー」の大成功で自信を得たジョージは、デトロイトの大物興行師ジョージ・ホワイトと接触。安いギャラで使える有望な新人を欲しがっていたホワイトは、週給50ドルでジョージを雇い、レビュー「スキャンダルズ」のための音楽を書かせる。
「スキャンダルズ」は大成功。足掛け5年間「スキャンダルズ」に関わったジョージの週給は、最後の年には120ドルになってた。
このレビューのためにジョージが書いた曲は、今日スタンダード・ソングと呼ばれ歌い継がれている、後年に彼が書いた曲(「エンブレイサブル・ユー」や「アイ・ガット・リズム」など)と比べると、かなり見劣りがする。
「スキャンダルズ」成功の要因は、贅沢で豪華な舞台美術と、半裸の女性をズラリ並べたエロティックな演出にあった。
レビューの成功が、ジョージの次のステップとなった。
ジョージは、2歳年下の株式ブローカー、ジョージ・パレーと知り合い、二人でナイトスポットを徘徊しては、コーラスガールたちに気前よくチップをはずんだ。
ジョージは洗練された仕立ての良いスーツを誂え、流行のアクセサリーを身につけるようになる。
パレーはジョージを、ジュール・グレンザーのパーティに誘った。
宝石店カルティエの副社長、ジュール・グレンザーは、芸術家のパトロンとしても有名な男だった。
彼の主催するパーティには、モーリス・シェヴァリエ、アーヴィング・バーリン、ジェローム・カーン、コール・ポーター、リチャード・ロジャース、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、チャールズ・チャップリン、ヤッシャ・ハイフェッツなどが、常連客として招かれていた。
好評を続けていたジョージ・ホワイトの「スキャンダルズ」は、1922年度版を制作するにあたり、人気上昇中のダンスバンド、ポール・ホワイトマン楽団を雇った。
ポール・ホワイトマンは、1890年デンバー生まれのバンド・リーダー。父親はデンバーの音楽学校教育長で、デンバー交響楽団の指揮者でもあった。ポールも少年時代はヴァイオリンの専門教育を受けている、いわばサラブレッド育ち。しかしポールは、アカデミックな楽壇に背を向けて、サンフランシスコで大衆音楽のバンドを結成。
このとき、西海岸で評判だったアート・ヒックマン楽団から引き抜いたピアニスト兼アレンジャーが、ファーデ・グローフェ。
ファーデ・グローフェは、1892年ニューヨーク生まれ。彼の家庭も音楽一家で、幼いころからピアノ、ヴァイオリン、和声を母親に、ヴィオラを祖父に学んでいる。1909年から19年にかけてロサンゼルス交響楽団でヴィオラ奏者を勤めるかたわら、劇場やダンス・バンドのピアニストやヴァイオリニストとして出演。音楽の基礎にも精通していたことから、編曲者としても重宝されていた。
ホワイトマンは、新進気鋭の作曲家ジョージに持ちかけた。
「フォーマルなコンサート用のジャズを書いてくれないか」
1924年1月3日深夜、翌日付の「ニューヨーク・トリビューン」紙に、ホワイトマンの広告が掲載されているのを、兄のアイラが見つけた。それには、「ジョージ・ガーシュウィンがジャズ協奏曲を作曲中」と書かれていた。しかもコンサートの日時は、2月12日、エオリアン・ホールに決定している。
ホワイトマンに電話すると……ライバルのバンドリーダー、ヴィンセント・ロペスも「ブルースの進化」というタイトルで似たようなコンサートを企画しているので、こっちはそれよりも予定を早めたいとの返事。
ジョージは新しいミュージカル「優しい小悪魔 Sweet Little Devil」のボストン公演に向かう列車のなかで、さっそく楽曲の構想を練り始めた。
1月7日に「優しい小悪魔」ボストン公演が無事に幕を開け、ニューヨークへ帰ってきたころには、だいたいの枠組みが出来上がっていた。
ジョージはアパートに2台目のピアノを運び入れ、精力的に作曲を開始。公演まで約1ヶ月。ジョージがピアノを使ってメロディを1枚書き上げると、それを片っ端からグローフェがバンド演奏用に編曲していった。
2月4日にグローフェの編曲はほぼ終了し、ホワイトマン楽団はリハーサルに入ったが、ガーシュウィンは、自分が演奏するピアノ独奏部分について、コンサート当日の、プログラムが自分たちの番になる直前まで楽譜に手直しを入れていた。
ポール・ホワイトマンは音楽家であると同時に有能なビジネスマンでもあり、今回のイベントを成功させるために、あらゆる手段をこうじていた。公演前のリハーサルに有名な音楽家や記者を約30名招き、宣伝に協力させた(当時の記者は金さえ貰えばどんな記事でもでっち上げるような輩ばかりだった)。公演当日は、セルゲイ・ラフマニノフ、イーゴリ・ストラヴィンスキー、フリッツ・クライスラー、ミッシャ・エルマン、レオポルド・ストコフスキー、ジョン・フィリップ・スーザなど錚々たる顔ぶれの音楽家や、銀行家などニューヨークの名士たち、批評家などが招待された。
1924年2月12日、ポール・ホワイトマン主催のコンサート「近代音楽の実験/アメリカ音楽とは何か」にて初演されたジョージ・ガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」は、アメリカ国民に熱狂的に歓迎された。
1937年7月11日、午前10時35分、ジョージ・ガーシュウィン死去。
昏睡状態に陥ったジョージを救うため、ホワイトハウスからホットラインで海軍の駆逐艦2隻に出動命令が出され、バカンス中だったウォルター・ダンディ博士のヨットを捜索。全米の脳神経外科の権威たちが総出で手術にあたったが、脳腫瘍は手のつけられない状況にまでになっていた。
オスカー・レヴァントは、1937年9月8日、ハリウッドボウルで追悼演奏会を開催。7人の指揮者、6人の歌手、2人のピアニストとフル・オーケストラが出演する大規模なコンサートには、2万2千人の観衆が集まり、その模様はCBSによって全米に放送された。