カミーユ・サン=サーンス
Camille Saint-Saens(1835-1921)
1835年10月9日、パリ生まれ。はやくに父親と死別し、母の手ひとつで育てられる。2歳ごろからピアノの手ほどきを受け、3歳にしてピアノ曲を作曲。5歳でベートーヴェンのソナタを弾いた。7歳のときマタマティの門下にはいってピアノを習い、ピエール・マルダンに和声を学ぶ。11歳でパリのプレイエル音楽堂にてリサイタルを催し、13歳でパリ音楽院(コンセルヴァトワール)のオルガン科に入学。作曲をアレヴィに学び、16歳ではじめての交響曲を作曲。ローマ大賞に応募するが落選。
1857年、23歳でパリ・マドレーヌ教会のオルガニストに就任。フランツ・リストから「世界で最も偉大なオルガニスト」と讃辞を得るほどの腕前を披露。1868年のオペラ「サムソンとデリラ」は、リストの指揮によりワイマールで上演された。同時にニデルメイエール音楽学校のピアノ科教授も務め、ガブリエル・フォーレなどを育成。ドビュッシーを中心とした印象主義音楽が主流となりつつあるフランスで近代音楽を批判。古典・ロマン主義を貫き、1871年、フランス音楽普及のためのフランス国民音楽協会を設立。
1892年にケンブリッジ大学より名誉音楽博士の称号をおくられ、1906年にアメリカを訪問。1916年にはフランスを代表してパナマ太平洋博覧会に出席。
1921年12月16日、当時フランス植民地だったアルジェリアにて客死するまで、オペラ、交響曲、協奏曲、室内楽、オルガン曲、歌曲など、多岐に渡るジャンルに膨大な数の作品を精力的に発表。ピアニスト、オルガニスト、作曲家としてフランス楽壇の第1線で活躍するかたわら、数学者、天文学者、詩人、画家としてもプロ同様の才能を発揮。自作のオペラや歌曲では、ほとんどの歌詞をサン=サーンス自身が執筆。
享年86歳。故国に帰ってきた遺体は、国葬として葬られた。
これだけは聴いておきたいサン=サーンスの名曲
「交響曲第3番 ハ短調」「ヴァイオリン協奏曲第3番 ロ短調」「ピアノ協奏曲第4番 ハ短調」